眼球越しの私の世カイ

自分越しの「世カイ」の話

感情は拭い去れない。

ぼんやりしててこびりついてて、でも揺れてて、悲しさの正体を悲しさと知れた時には笑けてきたり、結構そんなもん。

俺たち自身も、人との関係性も、思考も、一生も、宇宙も、言ってしまえば時間というスタートラインとゴールテープで区切られた中の「振動」。

ムダかな全部。

揺れていくってわかっていれば、無駄とか割り切ってしまえば、抑揚も小さくなっていく。

そりゃ正解かはわからんけど、大人ってそういうことかも。

喜びも悲しみも振り幅が小さくなってきて、求めた「ラク」は「楽」では無かったりするんかも。

 

まあ大丈夫やろ。俺ら若いし。

んで、なんとなく自分の中でめちゃくちゃ落ち込んでた時期とかもあったけど、意外と周りにはバレてなかったりする。

悲しみも喜びも寂しさも、本気で隠すと案外隠しきれてしまう。

 

ただただ考えるって、それだけじゃ意味を成さんかもって、そいつ独特の言葉でそいつの寂しさを目にした時ハッとしている自分に気がついて思った。

俺はお前らのことを考えてるけど、お前らが俺のことを考えてるなんて、ちゃんと感じてなかった。

 

じゃあ逆の気持ちもコレか。

もっと簡単に、伝えていかないとダメか。

諦めて切り捨てる覚悟を持つか。

 

どちらも選ばずに、選ばないという選択に引っ付いてくる答えを選んでしまうのか。

 

止まない雨はないとか、空けない夜はないとか都合良いわ。

続く晴れもないし、暮れない昼はない。

 

とりあえずマイメンたちの明日が晴れたらいいな。

なんか好きになったわこの文章。

 

純粋じゃなくても良いよ。

純度100パーで今はこう感じれてるなって思えたことなんて一度もない。

ぼんやりしてこびりついてて、でも揺れてる。

 

大丈夫ですよ。

 

小学生と宇宙

なんかお久しぶりです。この感じで文章書くん久々です。

 

ふと思ったことなんですけど、義務教育って地味にすごいことしてなかった?って話。特に小学校。

 

毎朝7時とかに起きて、大した距離でもないのに集団で登校して、偉いなあ。

何がすごいって、せいぜい半日の間に国数英社理に加えて道徳学んだり芸術に触れたり身体動かしたりしてるんですよ。。。

やっぱり全ての知識の礎は義務教育に詰まってるような気がします。当たり前やねんけど、気付かんかった。

その頃の生活って、健康で文化的な最低限の生活の全てのエッセンスが凝縮して詰まってた気がします。

 

何かに決め込んで向き合って戦うのが、大人なんかもしれんし、そういうもんかなとも思うけど、実は若さを失ってるんじゃ無いかとも思う。

 

サカナクションが好きなんですけど、ボーカルの山口一郎って人が、「人には浴びる遊びをする人と探す遊びをする人がいて、今の人は浴びる遊びばかりしている。」って言ってまして、、

この言葉の真意は、わからないものからわかる要素を探してその喜びや意味を知るという事だと思います。

昔はインターネットがなかったから訳も分からないCDや本を買っては、いいとも思ってないのに、勿体無いからいいと思う部分を見つけ続けようとしていた、らしいです。

 

結局彼は、浴びる人たちが大多数の世界の中で、いかにマジョリティに溶け込みながらマイノリティにも刺さる音楽を作るかということをテーマにバンドをしているらしいんですけど。(カッコいい)

 

彼はある意味諦めているというか、受け入れているというか、そうして自分の立ち位置を見つけていますが、その話を聞いた上で俺自身は、自覚できる限りは探す遊びをしたいなって思いました。で、飛躍してる感じあるけど、そう思った時にすごいことしてたなってなったのが「小学校」。

毎日クソめんどくさいことに付き合わされる。ある時は文章に、ある時は数式に、ある時は図に、ある時は音楽、絵画、友達、説教、、、、、などなど、、、

 

若さって、概念で語ると、そういう教養に対する姿勢のことを言うのかなと思います。

だから自分の興味関心に突っ走るのは確かに専門性を高めてくれるかもしれない、お金になるかもしれない、でも人間としては?、俺は若さを保っていたいです。

 

戻りたいとは言わんけど。

 

昨日は常体、今日は形体、所によっては今日も常体。

こんな文章作文やったら真っ赤になって返ってきますね。

おぼえてる?

俺の好きな人曰く俺は、今を生きるリアリストらしい。

 

でもよくよく考えてみると、過去や、記憶や、思い出や、そういったものが大好きやったり大嫌いやったり、とにかく今じゃない所に心揺さぶられながら今に向き合ってる。

 

それ故に結構どうでもいいことの端々を覚えていて、他人と共有できないことに戸惑ったりすることもある。

 

もっと戸惑うことがある。

 

これまで自分の周りにいた人間と、ごくごく自然に、さりげなく、関わりがなくなって行くこと。

悲しさや切なさを微塵も残さずに。

 

みんなはおぼえてる?

おぼえてたらそれでいい。

この先ほとんど無いであろう何かのきっかけが、やっぱり無くて、一生をそのまま終えても、まぁいい。

 

この特性が、よかったことももちろんいっぱいある。

自分を許せること。自分を叱れること。

後悔や苛立ちは誰にでもつきまとうしあって然るべきやけど、おぼえていればいつでもその時の自分の気持ちに立てるし、許すことも叱ることも自分で決められる。

 

その時の自分のことは、責任も、見返りも、今の自分とイコールだということを実感できる。

 

これも今の自分が作り上げた過去への解釈かもしれんけど、少なくとも他人も観測しているような自分の行動に後悔はしてないし、その時の自分をわかってあげられる力はあると思う。

その時の責任も背負える。

 

最近、LINEの「最近更新されたプロフィール」をよく見る。

日々色んな人を思い出し続けてその人の今を想う。

そう思われる人間でありたいから、そう思える人間でいようと思ってる。

 

過去を今にし続けていたい。

でありながら狂おしいほど今に夢中。

 

空想への憧れは常に現実にある。

 

すべては今と、現実に、変換される。

 

それが俺にとって理想的な、「今を生きるリアリスト」。

なんてことはない

タイトル通り、なんてことはない。

今んとこなにも考えてません。

今も。

まだ。

 

うん結局なんも思いつきそうにない。

 

ほんまに書きたいことがないから別に口にしてもしなくてもいいようなどうでもいい独り言をぽつぽつと吐きますね。

 

サークルの友達が突然ラインをくれて嬉しかった。おすすめってYouTubeのリンクを貼ってくれて。

「まるでいつでも会えるみたいに気軽にラインしてたいね」って言ってくれた。

 

そういう関係にずっと憧れてた、過去に持っていたこともあったし、どこかでそういう関係やと思い続けてる人は数人いるけど、照れずに照れくさいことを言える彼は、濁して分かり合うことばっか求めてしまう俺に必要なタイプの人間やと思った。

絶対に結婚式に呼ぼうと思ったし、煙草が好きな彼には、俺が死んだら遺灰を吸ってほしいなって思った。

それはウソ。そんなシドヴィシャスとその取り巻きみたいな生き方は強要せんし、俺は死なん。

 

とりあえず、間違いなく今日この頃の力にはなってる。ピース。

 

弟が色々うまくやってるらしい。

彼は根っからアーティストやなぁと思う。

振り返れば、習い事をすれば続くのはいつも俺の方で、あいつは新しいことに手をつけては、すぐにやめていった。

時には彼から奪うように、器用さを見せつけるように、俺は彼の居場所を踏みにじってたこともあったようにすら思う。

 

俺の無慈悲な力すら振り切ってそこにいるということがもう最強を意味してる。

 

過去を思うと申し訳ないなと思うこともあるけど、強くなった彼を見るのは楽しい。

とはいえ、洗脳ともいえるほどの俺への強い憧れは今でもあるんやと思う。

俺もそういう自分を忘れたらその時こそ自分は死ぬんやと思ってる。

いつまでも憧れさせてやろ、って、かっこつけてるわけじゃなくて、かっこつけてる。

 

日本はえらく暑いらしい。

いうてもドイツも結構暑い。

みんなはテストが大変らしい。

俺は大して大変じゃないから無駄に今日は夜更かしして勉強でもしようかと思う。

他人がいると本当に頑張れる。

他人がいないとまるで頑張れない。

これって何一つかっこよくないから、一切誇ったことはないし誇ろうとも思わない。

 

嫉妬は欲望を明確化してくれるらしい。

嫉妬するものを自分は欲しがっていて、嫉妬する対象に自分はなりたいらしい。

 

日々はグダッと続く。

特にこれだけ暑いと余計にグダッとしてる気がする。

だからといってこうしようとかああしようとか、こう在れとか無いし、宣言もしない。

ありきたりな安い結論に逃げるにはまだ考えきれてない気がする。

「界隈」のキモさと窮屈さ

特定の集団をディスるわけじゃないけど界隈ってめっちゃ窮屈で不自由やと思います。

新しい人間関係を築けば必ず付いてくるもので、人との関わりの中で避けて通れないもの。

例えばビジネスをしますってなったらその界隈の人とのつながりが生まれるけどその分のしがらみや不自由さも生まれてくる。

バンドをしますってなったらある程度他のバンドマンに顔向けできる範疇での発言や活動が強いられる。

 

仕方ないとした上で思うんですけど、気持ち悪いです。

誰かにとって居心地がいいところは誰かにとって近寄り難いところです。

ビジネスマンがビジネスマンから、バンドマンがバンドマンから集めるいいねは羊同士の合体です。

それで世界は平和なんかもしれんけど、俺は、こいつ誰?みたいな人との繋がりを大事にしたい。し、いろんな界隈からこいつ誰?って思われてたい。

 

まぁ、どの界隈からも孤立して繋がりもクソもない本物のボッチなんですけど、1人で感じる孤独は結構耐えれるもんです。

集団の中で感じる孤独はめちゃくちゃ辛いです。

どこかに属していながらも、一瞬フワッと自分が浮く感覚ほど胃が縮こまることないです。

 

とはいえこんなこと言ってると人との繋がりを否定するんかって思われそうやけど、別にそういうことじゃなくて、自分が確固たる自分を持つ場はあるべきやってことです。

俺が俺の持つ各界隈との馴れ合いをする事で、それを尻目に離れて行く人がいるなら、最初から誰かを意識する事なく言葉を発したいし自分を晒したい。

めっちゃ難しいんやけど。

 

その上で俺を見てくれる人は実はいっぱいいるから、なんか、優しいなって思います。

 

それぞれを忘れることはないし、関わってきたコミュニティ全部結構好きやからこそ、「浮いてんなぁコイツ笑」みたいに思われてることも良しとして、自分を晒していこうと思ってます。

 

それがこの変なブログやったりツイッターやったり、、

俺が世に出てる部分、大体そうかも。

 

サークルの為のつぶやき、恋人の為のつぶやき、先輩や後輩の為、友達の為、別にいいよ、俺もたまにするし。

ただ、好きやからこそどこから見ても不自然な剥き出しの俺が公にいることはもっと大事な気がする。

投げキッスをあげるよ

twitterとかinstaの存在意義って何なんやろって度々なってました。

かつての自分の捉え方としては、情報収集の場、と、承認欲の解消、やと思ってました。

 

で、一定期間やめてみて、どっちの役割も大して機能してないなって思いました。

情報は腐るほど流れてるけど、受動的に手にする情報はバズってるものが多いからみんなの目にすでに触れていて新鮮味がありません。何なら、多くの人が正しいとか素晴らしいと思ったものが拡散される世界やから個性に大差がなくなって意見が腐ってんちゃうの?とすら思いますね。フリーメイソンの陰謀や〜〜〜みたいな展開ですね。

 

わかる人にはわかるみたいな結局何がいいんかわからん良さ(ややこしい)ってどんどん埋もれて行くんちゃうかなあ。

 

淘汰されて行く素晴らしい生き方、おもんないなあ。

 

で承認欲については、無理やろ、こんなツールで承認欲満たすなんて。ってなりつつあります。

これまで自分の化けの皮を引っぺがすつもりでいろんな角度から自分を晒してきたつもりではいたけど、無理や。

もがくほどに滑稽に空回りしてる哀れなナルシストが出来上がる。

結局人は人のことを付加価値的な部分で興味を持って接することを決めるわけやから。

ましてや何千人の呟きの中で異彩を放つには、「これ、本音なんでみてください」なんて何の効力もないな、って思いましたー。極端に自分の付加価値を誇示しないと。

そうでもないのに興味持ってくれる人は天使か何かかなって思います。

センスありますね。🐭

 

よく人に興味なさそうって言われるんやけど、何でやろって思ったら自分に興味を集めたすぎるからなんかなって思って。

 

なので、一回、ある種自分を諦めて、みんなを真剣にみてみようと思います。

 

滑稽に空回りしたことがある哀れなナルシストなら、自分を犠牲にすりゃ滑稽なみんなにも投げキッスがあげられるんじゃないかなって。ことで。

 

まあ自分を諦めたわけでもないんやけど。

 

散々毒を溜め込んで、発散して、諦めて、また溜め込んで、みたいなの疲れたんで。

博愛や。

 

きも。宗教みたい。

とにかく、神は、横田は、あなたをみていますよ。

 

 

 

ほんまにきもい。笑

人を見るためのツールってことにやっと気づいたってだけの話なんですけどね。

 

絶望と諦め。「実感」に刺さるバンドandymori

先に言っておきます、結構たくさん動画を埋め込んでいますが、思いつきで貼ってるものですし飛ばして読んでも全然いいです。

全ての曲を聴いた上で何となーく貼ったものなんで、興味が湧いた人は選ばずに聴いてもらっていいと思います。

 

あと見出しとか何もなくて読みづらくてごめんなさい、久しぶりやから許してください、何にもしませんけど。

 

andymoriというバンドの話です。

いろんな経験をして今という日があって、やっぱりこのバンドに出会えてよかったなって数年越しに思っています。

 

自己肯定感が欲しい人、ゆるく幸せな人、ゆるく不幸な人、日々がだるい人、音楽とはなにかがわからんくなってる人、死にたい人、には是非聞いてほしい。

 

このバンドに出会ったのは中学2年生ぐらいのときかな、アルバム「革命」が出てた頃なので2011年。

多分そんなもんです。

同級生で知ってた人はほとんどおらんかったからめっちゃマイナーやと思ってたけど、今思うと全盛期を見てたんやなーって思います。

ゴリゴリのプッシュを受けてたわけでもないけど業界の中では高い評価を受けてたらしいし。どうでもいいけど。

と言うわけでとりあえずこのバンドとの出会いの曲を貼りますんで聞いてください。(MV公開日が2013年になってるけど多分レーベルのあれやこれやで公開し直したんじゃないかなーと思います)


andymori "革命"

 

友達づてに聞いたわけでもなく親が知ってたわけでもなくyoutubeで自力でたどり着いて、惚れたって感じの初めてのバンドです。

どうでもいいけど、あなたへのおすすめっていう機能ほんまにすごいよね。

 

で、どうですかね聞いてみて。

ここでしょーもないってなったならまぁそこまでなんですけど、興味あったら引き続き読んでください。

 

当時のまだまだ音楽的知識も乏しかった俺からするとまず短さが斬新に感じました。

あと少年みたいな歌声と、なんの小細工もないクッソ簡単なコード進行。

歌詞は斬新かっていうとそうでもないんですけどそれがすごいとこで、そこまで斬新じゃないことを実感に刺さるように歌える声とキャラクターと音楽性が彼らにはあると思うんです。

100回1000回1万回さけんだって伝わらない届かない思いは

100日1000日1万日経った後できっと誰かの心に風を吹かせるんだ

andymoriが叫んだ思いは数千日経った今も俺の心に風を吹かせてますからね。

 

すごい歌詞って「わかる」みたいな誰もが持つ感覚を誰もが予想しない角度や言い回しから突きつけて来るみたいなイメージがあるんですけど、andymoriはあんまりドキッとする言い回しは多くないです。

あったとしても曲の陽気さやエモさに隠れがちで。

ありきたりなことをいかに自分のものとして吐けるか、みたいな感じがします。

 

さらに、

気付く人がどれだけいるか、勘違いかもしれませんが、絶望感や諦めが垣間見える気がするんです。その哀愁がすごい。

『冷蔵庫の前うろつく』とか、『いつもの自販機でコーラ買う』とか、リアルな「停滞、もどかしさ」を味わったことがある人間が表現するベットリとした現実世界を感じます。

小説にしてもなんにしてもこの感じすごく嫌いやけど、めちゃ印象に残るし結局すごく好きです。

 

「日々」という物の捉え方が実はすごくネガティヴ。

『いつも最低いつも最低最高最低』

そのぐらいのペースで毎日は巡ってる。

『楽園なんてないよ、楽園なんてあるわけない』

俺らの日々は大したものでもない。


andymori "Life Is Party"

 

その上でどう生きるべきかって言う答えがありきたりでゆるくて多幸感であふれていて、沁みる。そんな感じ。

『大丈夫ですよ』とか、『世界で一番お前が正しいんだよ』とか、『宇宙の果てはこの目の前に』とか、「どうでもいいやんけ」って感じでそんな日々をあしらってくれる。


andymori「投げKISSをあげるよ」〜SWEET LOVE SHOWER2012〜


クレイジークレイマー andymori

 

総括するとandymoriは実感を救ってくれる。

 

最近すごく思うことなんですけど、生きる上で哲学や思想なんて無くても良くて、大事なのは実感なんです。(賢くなりたいとか考える力が欲しいなら別です。ただ「生きる」ことにおいての話)

これが充実してるかしてないかだけで人は生きたり死んだりするんです。

 

だからバカがバカの価値観でした恋愛をバカなりに歌に落とし込んでバカに寄り添ったフリして売りつけた曲がヒットすることもある。

それくらい実感ってものは大事やし何を起こすかわからない。誰とは言ってないけどなんかごめん。

 

そしてボーカルの小山田さんもその重要性を強く感じる体験(多くは語らないので気になる人は調べて)に基づいて、思想や哲学はとりあえずそっちのけに、ただただ主観的に実感を歌にしているんだと思います。

単純に姉や、友や、家族や、被災者など、その時自分が歌を送りたかった人に向けて歌ってるだけなんだけど、その中身や姿にはどうしても自分を重ねたくなる。そういう歌が多いなーって思います。


andymori 2nd LIVE DVDより"Peace"


andymori "兄弟"

 

暗い経験に暗い歌を、ではなく、暗い経験に基づいた明るい歌を。


andymori 「光」

 

彼らは心底正義とか栄光とかに興味が無くて、実感の中で如何に生きるかってことが重要なんやとおもいます。

 

andymoriラストライブはまるで過程にいるバンドのようなものだったって、よく聞きます。

日本武道館でやったそんなライブの数ヶ月後、夜中の商店街で十数人に囲まれながら歌を歌う。こんなに媚びずに素直に実感のために生きてるミュージシャンがいるんかって、惚れてしまう。


小山田壮平 ハッピーエンド(andymori) [2016.5.8]

 

音楽は生きるために必要かみたいな話はいつの時代も尽きんけど、一部の人にとっては手短な趣向品でしかないんかなと思います。(というのもRADの曲に対する浅はかすぎる批判を見て思ったんですけど。)

そういう中、

実感に刺さる音楽は必要とまでは行かなくても楽にしてくれる薬にはなり得ると思います。

セックス・ピストルズから尾崎豊まで、いつの時代も一斉を風靡したのはそういう人間のそういう音楽やとおもいます。

たとえ時代が変わっても、争いは止まないし欲しいものは尽きないし悲しみは消えないので、この類の音楽は必要とされ続けると思います。


andymori "Sunrise&Sunset"

 

他にも、旅と人種とアイデンティティという視点についてや、同じ単語が違う曲にも多用されていることなど、語りたいポイントや見方はかなりたくさんあるバンドなんですが、なんだか疲れてしまったのでこの辺で終わっておきます。


andymori 「シンガー」