眼球越しの私の世カイ

自分越しの「世カイ」の話

幸福論

今回俺は超頑張った

先に言います。

訳の分からん話をします。

自分でも自分についていけるかわからん。

やってみる。

 

導入

ある友人がいまして、彼とはめっちゃいろんな話をします。

 

その時々によって哲学的なテーマみたいなのをしっかり持って考えながら生きてるような人で、俺に意見を求めてくれるし関心してくれるし、存在そのものを愛してくれる、人です。

 

これだけピュアに俺の意見に耳を傾けて反応してくれるのは、ダンと彼がダントツです。

普通はプライドが邪魔して素直になれへんもんですよね、俺もです。

 

あーまあいいや、そいつとの関係もいずれ書きます。多分。

 

そんな彼と、結構長い期間、会うたびに「幸せとは」みたいな話をしてたんです。

今回はそこで自分が考えてきたことと、その延長線上に思ったことをまとめてみます。

すでにまとまりないブログやけど堪忍な。

 

幸福を場合分け

まず、幸福を感じる場合を分けてみる

(幸福とは何かを考えるにあたっての前提条件)

 

1.唐突に、ふと訪れるもの

例えば、風呂きもちぇえ、、みたいな、いわゆる棚ぼた

 

2.現状からのアガッてる感、キテる感

例えば、目標を設定し、そこに近づいている達成感や緊張感様々なものをトータルで加味し、感じる高揚感。目標設定なくてもいえるかな。

(過去の状態から上がってる時の上り方。グラフで言うと傾き)

 

分けたけど結局一緒クサイ

実は1個目も2個目も、期間や程度の違いしかなくて本質的には同じものかなと思います。

ふと訪れた幸福はすぐ忘れるし。

唐突なものか持続的なものかの違いかな。

 

とりあえずキーワードは、傾き、とかキテる感ですね。

 

俺らは「夢を持って、達成する」とかを例にすることが多かったので、無理矢理分けた中で言うと、特に2つ目を中心において考えていました。

 

本題:幸福とは何か

結論から言うと彼の答えは「幸福は本人が自分で決めるもの」で、俺は「本質的には存在しないもの」やったと思います。

 

これ、問いに対して答えるポイントがずれてるんで、違うこと言ってるんですけど似たような意味です。

 

説明します。

 

例えば、

この世界には金持ちと貧乏人のような理不尽な格差があります。

しかし金持ちにとっては金を持つことは幸せではありません、なぜなら金を持ってるから。

貧乏人は金を持ってないから金を持つことを幸せと思えます。

 

立場、心理状態、思考、年齢、性別、、その他様々な要素を人は持っており一つとして同じものはありません。

各々がその全ての要素を踏まえて「幸福とは何か」と言うことを想います。

 

とても簡単に言うと、幸せの形は人の数だけあるってことです。

あっっっさ笑

まぁでも、それが友人が言った「幸福は本人が自分で決めるもの」って言う答えでもあり、「本質的には存在しないもの」って言う俺の答えでもあります。(ここで言う「本質的」は、「真理」や「事実」のような、揺るぎない確定要素みたいな意味です)

 

幸福は無知の上で成り立っている

でもここでちょっと意見が分かれることがありまして、、

よく聞く話なんですけど、例えばある独身のおばあちゃんが詐欺にあって、高額でなんの変哲も無い布団を買いました。

本人はそれを本当に価値があると信じており、そこから実際に寝つきも良くなりました。

 

さあこのおばあちゃんは幸せですか。

的な話です。

あと有名なんで言うと、幼い兄弟がカードゲームのカードを交換する話とか。(兄が弟に雑魚カード10枚あげてレアカード1枚もらう、弟はカードが増えたことに大歓喜)

 

どう思います?

 

ちなみに友人はそれでも幸せは自分がどう感じるかだから例の中の彼らは幸せだと言っていました。

先に言うと俺の答えは「不幸だ」なんですけど、それはひとまず置いておいて、ここで伝えたかったのは、幸福は、知らないということの上で成り立っているということです。

 

無知は罪

無知は罪という言葉があります。

ソクラテスが意図していたものと俺の解釈は若干違うかもしれませんが、俺自身も、無知(無邪気)というのはホンマに罪やなって思わされることがめっちゃあります。

 

 

例えば、進路選択。

注:この例は不快におもわれる方がいるかもしれません、閲覧注意。

日本の教育では、進路選択っていうのは結構早い段階から決断を迫られます。

いざ高校受験。

なんてゆうても決める本人らは所詮ガキです。

知らんことだらけやのに、いっちょまえに反抗はする。

 

親の反対を押し切って専門学校に行きました

→入ってから普通校に行った友達の話を聞き自分の中で世界が広がったけどもう遅い。とか。

 

普通科入りたかったけど学力が足りんかった、どうしてもその学校行きたいからレベル下げてでも学科変えて入学

→結果的にその先の選択肢を狭めていた。

とか。

 

当の本人らからしたら自分の中で落とし所つけてそれはそれで幸せな今を生きていると思いますが、最初から知っていてなお本当に同じ選択をしたのか。

 

そんな道を選んでしまった人たちを馬鹿にしたいわけじゃありません。

俺自身も進路に限らず、無知故に可能性を狭めてきてしまったことは何ンンンン度もありますし、そんな自分の甘さを噛み締めることもあります。

 

無知は罪です。

 

結果論やんってのも一つの意見です。

が、そうかな。

知ることでこれまでの幸福がひっくり返るような幸福なら、知らないことは罪でしょう。

、ていうのも一つの意見でっせ。

 

すると生まれる、「幸福のパラドックス

え、無知故に幸福になり得るのに、無知故に不幸でもある??てことは、

無知∴幸福

無知∴不幸

幸福=不幸?!??!

幸福のパラドックスやぁ👐

これバイト中に思いついたワードです。

神様仏様お客様、大変申し訳ございませんでした。どうぞまたおこしくださいませ。

 

いよいよわけわからないですね。

これは式としてあってんのかもよくわからんけどその辺は理系ボーイズの力添えに期待して。

 

まとめると

幸せは知らないことがあるからこそ成り立っている。しかし無知であるということは結果的に自分に不幸をもたらす要因にもなり得る、罪である。

 

まとめると暴論感あるのは甘いからなんでしょうね考え方が。

突き詰めねば。

 

矛盾の中で、じゃあどうするか

じゃあどないしまんねんって話なりますよね。

そらそーです。

答えとしては、「知らないことを追求し続ける」です。

 

知らないことがあるから幸せでいれるってことは言いました。

てことは、当分幸せになれる可能性は潰えません。

俺らがなんで生きてるか、とか、宇宙ってなんなん、とか、そんなんしばらくはわかるはずもなさそうやん。やし大丈夫。

 

でも、だからといって知らないことを知らないままにするのは人類という生命に託された何かを放棄してるような気もします。

(だんだんオカルト感増してきますねこういう話すると。)

 

知的好奇心を持てるのは俺ら人間だけ!

不幸を掘り下げることになるかもしれんけど、知らん幸せを掘り当てる可能性にもなるんやから、知らんことをどんどん求めて生きましょう。

 

そうやって落とし所つけるしか、うまく生きる方法が今んとこ見つからん。

 

さて、分からんとこだらけ腑におちんとこだらけでしょうけど、ここまでたどり着いていただけたことに感謝します。

 

ありがとうございました。

どうぞまたおこしくださいませ。

 

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今日はいかにもヨーロッパなとこに行ってきたよ。