ファッション英語と洗脳被害者
インスタでアルファベットばっか並べるエセグローバル人間、きしょいですよね。
めっちゃわかります。
というかもはやそれ俺の意見。
ハッシュタグを駆使して、要りもせん外国人のフォロワーを獲得しては、コメント欄にくる「اللغة العربيالعَرَبِيَّة!!!🔥🔥」みたいなコメントを無視する日々を過ごす人たち。
「ぶんなよ」ってなりますよね。
でもなんでそう思うんですかね。
そういう人たちがファッションで英語やら韓国語を使ってるっていうのも多分にあるとは思います、てか、俺も主にはそういうファッション野郎のことを言ってます。
でも、自分たち日本人を取り囲む価値観がそう思わせてるところもあると思います。
目的か手段か、みたいな話がありますが、「アメリカ人かっこいいー韓国人かわいいー、外国語話せるようになりたいー」って、それが目的になってる人たちがしょうもないっていうのはいうまでもないと思います。
じゃあ、手段として外国語を用いるのはどうかというと、それも俺の意見とはちょっとニュアンスが違って、言語は「道具」やと思うんです。
あえてそういう言い方をするのは、言葉をそんな大層なものとして捉えたくないからです。
人がそれぞれに捉えている言葉のニュアンスは十人十色で、一つとして同じものはありません。と、思っています。
言葉の捉え方がみんな同じなら俺の心の内を全部言葉にしてるこのブログはきっと完璧に理解されるし、俺がどんな人間かもみんなわかってくれるんやと思います。
そんな世界がいいなあ。
でも現実はそうじゃなくて、言葉を形にして発している方が、あいつは気難しい、とかなんやポエマーみたいなこと言いおって、とか、これまた十人十色の捉え方をされて、その捉え方の数だけの横田魁がみんなの中に生まれるんです。
だから大分遠回りしたけど何が言いたいって、言葉なんて箸があって、フォークがあって、ナイフがあって、、、みたいな中の一つにすぎんものってこと。
でも道具を増やせばできることは増えますよね。
一個一個の道具は大したものじゃないけどいろんな道具を使える人は絶対重宝されます。
でも謎に、日本は未だに箸ばっかり使いたがる。丼ものをレンゲで食おうとしたら、「箸でかっこめよアホ」ってなる。(実際はならへんけどあくまで比喩です)
っていう例えを経て言うと、日本には、見せびらかすために道具(外国語)を身につけてる人がいて、一方で、それがきしょいからなるべく全てを一つの道具(日本語)で完結させようとする人がいる(こっちが大多数)。と思います。
で、ずっとそうやから、ファッションとしての言語に興味ない人たちはみんな日本語で完結する社会を生きることにしか目がいってないように思います。
俺はどっちも好きじゃないです。
何か一つの趣味を取っても、英語っていう道具を一つ持ってるだけで何十倍もの情報が入ってくるし、自分の好きなものについてやったら、なおさら幸せになれます。マジで。
才能持ってる人いっぱい知ってるけどみんなほんまの意味では全然興味ない。
ある意味で、それだけで完結する社会によって洗脳されてると思います。
数字だけで見れば自分の道具が通用するのは70分の1ちょっとやのに。
色々偉そうに哲学語っててもどんだけ目の前の環境と実感に縛られてるかってことですよ、自分に向けてもほんまにそう思います。
何より、自分の好きな人たちが、尊敬する人たちが、英語が歴史の中で覇権を握るようになったっていう理由だけで外に出れんし出ようともしないのは、ほんまに悔しいです。
70億人の中から君一人と出会えた奇跡
より
69億9999万9999人に出会えなかった切なさ
に目がいってしまう。
んなことない?
その上で日本のみんなが大好きやけど、実感に縛られるのは勿体無い気もする。
この辺の揺れ方自分らしいなって我ながら思う。
実感に人は動かされて生きてるからこそ実感を育むのも必要かなと思います。
書いておきたかったテーマなだけに、うまくまとまらんかったのが悔しいけど
言葉なんてそんなもんよな。
今後にも、これまでにも、言いたいことは散りばめてあるのでよければ拾っていってください、お願いします。
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