極論も極論
疑問
僕を僕たらしめるものってなんなんでしょう。
容姿か?なら整形してしまうと自分じゃなくなるのか?
考え方か?なら過去の自分は自分じゃないのか?
運動能力や芸術的なセンスか?なら練習して身につけた自分はどうなるのか?
最近ふと思うことなんですけど、
他人のブログとかsnsとか、あるいは昔の哲学者の本とか、色々、、とにかく「他人の意見」を目にするときに、自分の言いたかったこととかうまく言葉にできんかったこととかをかなり多く見かけるんです。
思いつかんくて悔しいみたいな感情とともに、俺の思いついたことなんてなんもないんやなってよく思います。
何処かの誰かが自分も知らんようなところで既に形にしているものを、俺は自分で思いついたような気になって自分の言葉にしているだけで、オリジナルなんてものは一個もないんやな、と。
みんなビッグバンのパクリなんやあー。
『「ate」で終わる単語やから2個前がアクセント』っていうのがめっちゃツボ
じゃあ完全オリジナルって何か
オーラとかそう言うオカルト的なもの抜きにした存在そのもの。
もっと言えばその人にしかない遺伝情報。顔や姿、形。しかないんちゃうかなあ。
整形とか外的な要因で見た目いじってたら表面に出んけど。(整形しようが遺伝情報は変わらないので表面に出なくなるだけということです、ややこしい。)
まあやし、完全に自然に、手が二、三本になってて、脳みそが隣人になってるんやったらそれは「僕」やと思います。
僕を僕たらしめるのはこの僕と言う存在をかたどる器の情報のみ。
その他の「能力」や「考え」は二次的なもの。
中身と言われる部分は、まっっっっっっっっっっったく同じ環境を用意して思考や発想を育てれば同じものができると思うんです。
同じ思考回路で物事を判断し、同じ努力をして、同じ成功と失敗を与えて、、、、、。
まあそんな環境を与えるの、無理なんですけど。
長年連れ添った夫婦の好みが似るとか双子は意思疎通がはかれるとかそういうのってそれに近いことなんじゃないですかね。
えげつない極左思想の持ち主も極右になり得るし、
俺も全く同じ環境下で生きたら坂上忍みたいになったってことですね、恐ろしい。
絵とか音楽とかすご技とかそう言う類は、わかりやすく環境や努力によって身につけた2次的な能力
わかりにくいけど、常識とか思考とか心情とかその類も、全然違う人でも同じ環境で0から全く同じ教育を施せば同じ人間が出来上がるんじゃないか
一歩間違えたらあいつにも、あいつにも、あいつみたいにもなり得たと思うと恐ろしいよなマジで。
ってことです。これ、ブログの下書きなんですけど清書するのめんどかったんでそのまま貼りました。
容姿だけで好きになる人本質的じゃね?
だとすれば、顔がタイプだ、背が高くてかっこいい。
とりあえずかわいい
その感覚はめっちゃくちゃ本質的な気がします。
その人がその人やという本質的な「器の情報を形にしたもの」を好きと言ってるわけですから。
でも、その人をかっこいい、かわいい、綺麗、と思う感覚も、
自分の器を取り巻く色々によって生まれたものなんです。
一切いじってない見た目に出る部分はほぼほぼその人の全てであることは間違いないけど、それを良いとするか悪いとするか、観測できるのはまたそれぞれの価値観にまみれた人間達のみです。
結局
だから、結局、性格が大事派も容姿が大事派もどっちが正解とかないし醜い争いなんですよね。
お前が好きな性格もお前が好きな容姿も、お前を取り巻くものが決めた価値観やから。
死ぬまで、自分を取り巻くたった一つの環境に育てられて自分というものからどんどん遠ざかって洗脳されて生きていく。
それでいいというか、それしかないですね。
よくできた他人との違いに思い詰めた時はこの記事を思い出して、「よー洗脳された器やなあ」って笑ってやりましょう。
ほんまに極論でしたね。
チャンチャン♪