神様、仏様、猫様、俺様
絵を描いておられる、
池永朱里さん(@ikenagamisa)
作品はこちらから↓
のツイッターでフォロワー1000人記念プレゼント企画がありまして、それに当選しました。
こういう類の当たった人がいいそうなテンプレですけど、
「こういうのってほんまに当たるんですね笑」
初めて彼女の絵を見たのは多分、(確かではないです)揺らぎ(@_yuragi_yura)というバンドのレコ発の時でした。
演奏をしているステージの前方、壁際に制作スペースが設けられていて演奏とともにリアルタイムで絵が完成していくというものでした。
他にも甘酒が振る舞われたり、ライブハウスにはちょくちょく行きますが、イベントとして一番印象に残っています。
ちょっとそれますけど、パンクやらロックやらアンダーグラウンドやら言って、一番革新的であるはずの人らが「激しい」とかそういうことに囚われてて、目新しいものに排他的で全然ロックじゃないみたいなんあるあるですよね。
そういう点ではいい意味で違和感だらけで、ロックでした。
あれからどれだけの年月が経ったのか、わからないですけど、あの時にも見ていたはずの絵に最近なぜか惹かれるようになりました。
誤解を恐れた上で言いますが、
多分俺が他人を認める(というか才能を認める)基準はほんまにガチガチに硬くて、なかなかすごさを承認できないというか、とにかくひねくれてるんです。
その人にしか持ち得ないものに自分も負けたくないし、持っていたい、そういう拒絶が起こりがちな気がします。
以前書いた他人に対する価値観と真逆のように見えると思いますが、他人は賢いっていうところはぶれずにずっと思っています。
その記事も貼っときます。
でも結局、自分は特別やとも思っています。
そんな回想の中で、やっぱり行動できる人間のすごさというか強さに惹かれ、嫉妬し、素直になれる時期がやっときたように思います。
思ってることがいくら崇高でも声に出して、行動に移さなければ何も起こらない。
元々わかってたことやったけど、ブログを始めなかったら、ずっと「俺はやればできる」って思い込んで自己肯定と自責を繰り返していたと思います。
そういう自分にやっとすんなり溶け込んできたものの一つが彼女の絵でした。
池永朱里さんをフォローしたのも最近のことです。
彼女の幅広い精力的な活動が俺にそう思わせたんでしょうけど、だとするなら余計に、行動することって大事やなって思います。
彼女はあれだけいろんなところで動いているにもかかわらず、出会うきっかけをいろんなところで仕掛けているにもかかわらず、ここに至るまでなんとも思わずに過ごしてきました。
ってことは、ブログなんて誰にでもできることをやって理解されたいなんて喚いてても知れてるんですよね、行動の大事さが身にしみますね。
こんな薄っぺらい文章になってしまって不甲斐ない。
とにかく、
なんで俺がこの絵を受け取ることになったのか、なぜ俺はこのタイミングでこの絵に惹かれたのか、意味があるように思えてならないです。
あまりにも大げさで、恥ずかしい文章であることは百も承知です、し、これが他人の身に起きたことならやっぱり目もくれないでしょう。
でもそう思うことで何か起こるんちゃうかなって思っています。
こんなことを言っておいて、
奇跡とか運命とか、そういうものってやっぱり、多分、信じてないです。
人はみんな無意識に生活を物語にしていて、いたるところに自ら伏線を張り巡らせています。
良いものも悪いものも。
大概その伏線は回収できずにことが終わっていくので、自分が伏線を張っている自覚もなく日々を過ごし続けます。
ただ何万回に一回、もしくはさらに少ない割合でうまく伏線を回収することがあり、そんなとき人は「そんな気がしてたねんなあ」とか、言いたがるんです。
それを奇跡とか運命とみんな呼びたがってるんやなあって他人事に思えた時はそう思ってました。
でもそうやって物語を積み上げることで(人生をドラマチックなものと捉えることで)人は成功を勝ち取ったり、幸せを感じたり、新たなきっかけをつかんだりするんやと思います。思考は現実化するみたいな。
とにかく、豊かで居たいなら「運命」や「奇跡」は「必要な勘違い」やと思います。
運命や奇跡は信じないと言っておきながら、また転じて、あえて言います。
この絵との出会いは俺にとっての運命であり奇跡だと思います。
ここまで分析した上でそんな生き方をするなんてめっちゃ冷めた見方ですけど、運命や奇跡を盲信するより、その意味を信じて生きていける気がします。
神様、仏様、猫様、俺様ありがとう。