眼球越しの私の世カイ

自分越しの「世カイ」の話

鎖国が足りない

ドイツに来て結構な時間が過ぎました。
ぼーっとしてたらすぐ終わってまうから明日からまた気合い入れてこ、みたいなノリで、久しぶりに書こうと思います。

あと黙って考え事ばかりしていると(それはそれで大事なことやけど)、色々良からぬ発想とか不安に火が付いて何するにもしんどいので、あえてやらなくてもいいブログを書くことで「活動」に慣れるっていう、なんか、そういうリハビリのつもりです。

漠然とした不安を抱えてる人は一緒にがんばろう。

 

それで、捻り出したアレが、鎖国が足りないって話です。

そのままなんですけど、個人規模でも、世界規模でもある側面で言えることかなと最近思うっていう話です。

 

まず世界規模、国家間におけるストレートな意味合いでの「鎖国」の話。

 

 

生活の中で、実は外から吸い取られてるものっていっぱいあると思います。

事実みんなTwitter,insta,Facebookで、個人情報から芸術から笑いから友情、愛情、思想、、、、何から何までほとんど全てを垂れ流してますけどそのコンテンツを作ったのは外です。

動画サイトはyoutube

買い物はamazon

携帯はiphone

恋人や家族や親友とのやりとりはLINE。

appは全てapp storeに並んでて、利益はそのappを並べるシステムを作ったアメリカに自動的にいく。

 

システムに乗っかって何かをしてるに過ぎないと言うことです。

 

例えば中国はそういったサービスに徹底的に規制を設けて日本でよく使われるLINE的なサービスとしてWe chatと言うものを独自に発展させてその存在感を大きくしています。鎖国の産物。

 

正直いってこれはやり過ぎ、生き残るものに金が集まるのが今の経済なのは確かやし、鎖国って発想は極端です。

自分が充足感を得られる内側のコミュニティは外によって作られたシステムに担保されているって意識しててもいいと思います。ってだけの話でした。あとはガンバレ日本。

 

 

 

次、個人の鎖国の話。

これは人を国と例えた比喩です。

なので「なんで日本人は世界に出ないんだー」とかそんなんじゃないです。

 

そもそも、個人が個人の思う幸福を追求するのは自由です。

 本当に重要なのは、個人が外に向かう姿勢を持つことではなく、外にはめっちゃでかい世界があるんだということにリアリティを感じることやと思っています。

その上でどうするかは選択ですから。

 

戻って、ここでの鎖国は人を国と例えた比喩。

あなたと私。あなたは外国、私は自国。あなたから私を閉ざすのが鎖国

そう言う話がしたかったんです。

人との関わりは素敵です。それが生甲斐にすらなるくらいに。
でも他人とのやりとりは個人の行為と個人の行為のやりとりであることを忘れてはいけないし、個人としての魅力の練磨がないのはすなわち他人をおろそかにすることでもあると思うんです。

 

「プライド」なんかも他者との関わりにおける一種の障壁やと思います。

なんならその人に対する感情全てそうですね。

その人とのコミュニケーションにおける自分を正当化することを優先するあまり、その感情にとらわれて、自国感情を蝕んでいくのが健康的にすごく不衛生な気がします。

 

自分ひとりの世界において他者への感情にとらわれない自分の内側を整える作業が「鎖国」であり、そこを充実させることが円滑な開国、貿易への鍵でもあると思います。

 

クソわかりにくい例えやったな。おやすみ。