眼球越しの私の世カイ

自分越しの「世カイ」の話

「言葉」=表現,道具,世界

バイト先の人から借りた「日本語のへそ」という本を読んで、感銘を受けたというか、自分の言葉に対する感覚と共鳴する部分があまりにも多かったので、このブログを読んでくださる皆様にも紹介します。

 

まずこの本の著者である金田一秀穂という方、ご存知でしょうか?国語学日本語教育学などの専門家らしいのですが、その言葉が正確に意味する職業は正直僕にはよくわかりません。

ただ、Q さまをはじめとするバラエティー番組などで見かけたことがあったので、あー穏やかで気の良さそうなおっちゃんやなあ、ぐらいの認識はありました。(最近滝沢カレンと仲良く話しているのを何かの番組でみました。)

そのイメージも相まって、強い語、トゲのある語を使っていても嫌味な感じのしない、説得力のある文章でした。


タイトルについて
では、内容について書いてみます。
特に面白かった部分を覚えている範囲で掻い摘んで書きますので、興味が湧いたらぜひ自分でも手にとってみてください。大学の授業を一つサボって昼休憩も費やせば十分読める量ですし。

まず、タイトルの『日本語のへそ』というのはどういう意味なのか、それは冒頭でこのような趣旨が述べられています。

時代は効率万能、コストパフォーマンスで全ての優先順位が決まってしまうけど、いい加減そんなものはやめろ、盛者必衰は真理である。
時代はAIとなり、効率や能率は無視すべきである。暇を楽しむ。
言葉、すなわち人や心の無駄遣いこそが今必要だ。
それはへそのように、なくてはならないけれど、なくてもいいようなもの。
言葉のへその力をこの本で知ってもらいたい。

かなり端折って自分の言葉にしてしまっているのですが大方こんな感じです。
まずこの大前提が自分の中の言葉に対する価値観と共鳴しました。



日本語特有の無駄な表現
そして日本語はムダの宝庫だと著者は語っています。
その最たる例が「人称」。
自分を示す一人称ですら、俺、僕、私、うち、、、古くを辿れば、拙者、とかもありますね。それが実は日本ではその人間の「位相」つまり社会的な立ち位置や人間性を示しています。

人は見た目が9割」なんていう悲観的で救いのない盲信がいつの間にか流行って、多くの人の意識の中に根深くありますが、僕は嘘だと思っています。

せいぜい6割くらいかな。
美醜の価値観が時代や文化とともに移り変わっていったのも言葉があってこそだと思います。

 

何はともあれ、凝り固まった一人称はつまらない。どうせムダなものに囲まれているのだから楽しめた方がいい。
そう思って、あえてこの記事の冒頭でも普段使わない「僕」を忍び込ませてみました。
なんか小っ恥ずかしいけど、せっかくのムダを楽しめていなかったなと気づかされました。

思想や哲学があっちにいったりこっちにいったり、常に揺れているものだというのは僕のポリシーの中でありやと思います。大アリ。なのに言葉は「俺」や「関西弁」や「日本語」に支配されている。いくらか滑稽だったなと思いました。僕僕僕。

 

言葉に支配される人間たちのドラマ

『言葉は身近なバーチャルである』と著者は述べています。

しかも映像や画像や音など、どの表現とも違って曖昧さを存分に残しているため、より万能だということです。
例えば源氏物語の主人公、光源氏は、顔かたちをさほど描写していないため、ただ「絶世の美男子」としか書かれていないにも関わらず、1000年以上も各々が描く「絶世の美男子」としてイメージされ続けています。
こういった言葉の認識による刷り込みは生活のありとあらゆる部分にあふれていて、私たちはそれに支配されています。
良くも悪くも。

でも言葉はあくまで仮想的なものです。そして道具です。

そこに支配されきって、「にんげんだもの」の一言に癒され、安堵しているだけでは思考停止に陥ってしまいかねません。
所詮道具なんだから、使う側でありたいです。よね。

 

それから、自叙伝めいたものを書きたがるのはやめたほうがいいという話。

過去に僕も「人は人生にフラグを立ててドラマに仕立てたがるところがある。」みたいなことを書いたことがありますが、その類いのものだと思います。

『真実は一つの言葉に収められるほどシンプルでない場合がほとんどだ。』ですって。

全くその通りだと思います。
例えば高校時代、学校での英語の授業はほとんどなんの意味もなさないと考えていたからあまり真面目に受けていなかった。でも音読やシャドーイングはわりに真面目にやったし、有意義なものを選んで評価も得た。大学も受かった。

と言えばそうなりますが、事実には、辞書に手垢をつけろ云々抜かす教師が気に食わなくて不真面目であった側面も、眠くてやってられなかったという側面もあります。
『パターン化した伝説の中に収めたがる。そんなもの嘘である。』


言葉と嘘と自分の解釈
そして言葉は嘘をつくための道具でもある。と次の章に続きます。
いや、言葉がそもそも嘘であるとも言える、という話について僕が噛み砕いて解釈している内容を以下に書きます。


『これはりんごだという言葉があるが、共通認識として便宜上「りんご」という言葉をあてがっただけで「りんご」ではない。

これが「りんご」ではなく、感情を表すとなると言葉はもっと嘘くさくなる、というより嘘となる。

嬉しいや悲しい、愛しているなんて共有のために無理やりあてがっているだけで、本当の心の中の情動のようなものに名はない。

言葉によってものを考え、コミュニケーションを図っている僕たちは、嘘によって生きているとも言い換えられる。』


あなたのいう「愛している」と僕のいう「愛している」はまるで違うものかもしれないんです。怖いね。

この感覚を僕はこの本を読む以前は「宇宙」ということにして解釈していました。
「それぞれの感情の集合体=大きな宇宙」が人類の中には共有されていて、個人は個人の銀河をそれぞれ心に有しているんです。
言葉という星や太陽系や惑星みたいなものを持っている。
例えば「愛している」という星があったとしてそれは表面の70パーセントを水分で覆われていて、残りの30パーセントが岩石、というような特徴を持っているとします。
、、、とおおよその意味を与えられた上で、個人は個人の観測できる星の中からそれに似たものを見つけ、「あーこれが例の『愛している』かあ」と納得してその後そう呼びます。

でも実は、違う銀河を持つ別人が見ている「愛している」とその人が見るそれは微妙に違うんです。よく似たものではありますが、れっきとした違う、「表面の70パーセントを水分で覆われていて、残りの30パーセントが岩石の星」なんです。

その星同士の距離は果てしないし、絶対にたどり着けないところ同士でそれぞれが「愛している」を発見している。
言葉とそれが指すものの差異とはこんなものだと僕は思っていました。

その微妙なズレの重なりが価値観の違いだとか感性の違いに結びついているような気もします。


だけどその嘘っぽい感じというかニュアンスのすれ違いをなんとなく嗅ぎ分ける嗅覚も、補う能力も、人間は持ち合わせていると思います。

だからこそ、友達と飲みに行き、ジョッキを鳴らしたり、恋人と手をつないでデートをしたり、、そういった無言のコミュニケーションにみんなが価値を見出すのでしょう。言葉より有能な部分があるとその嗅覚が教えてくれているんだと。

自分の中で言葉をこねくり回すよりも一度の人との触れ合いがコミュニケーションとして意味を持つこともなんとなくみんなわかっているんではないでしょうか。

 

 

嘘を知らない人のこと
金田一さん曰く、自分の銀河の正しさを信じ嘘をつかない年齢が人間にはあって、その頃、人は見たもの感じたことをなんでも口にするようになるそうです。それが3歳から5歳くらい。ちょうど初めてのおつかいに出てくる子供たちの年齢ぐらいです。

『考えていることと出ている言葉と行動が一切嘘なく手をつないでいる。だからそれを見て感動するし、笑える。』なるほど。

もうちょっと成長すると嘘をつくことや、性的、暴力的な言葉として、発散するには憚られるものを覚えます。大の大人が何でもかんでも目にしたもの、思ったことを口にしながらおつかいをする光景なんかを流したらとんでもない放送事故になりますよね。
地獄です。
自分の胸に手を当ててもらえばそれがいかにひどい内容になるかは皆さんが一番よく知っているはずです。


本音と建前と楕円の思想
では最後に、最もこの本が僕の心を震わしたテーマについて触れて終わりたいと思います。

それは「第3章 言葉が示す『本音と建前』の世界」 の、特に『楕円の思想』と言い表している箇所にあたります。

「今」というのは本音が求められる時代です。
本音を痛快に代弁する政治家は当選するし、しょうもない日常の本音を語ったツイートには何万ものいいねがつく。

 何が目的かわかりづらいいくつものテロ集団が生まれ、あらゆる性差が認められ、様々な情報に溢れる今の世の中は、多少辛辣でも白黒はっきりとしたことを言える人ほどちやほやされがちです。

曖昧な言葉は大衆に刺さらないし、そんな靄のかかった世の中に、単色はっきりとした本音は魅力的に映るんだと思います。

これこそが『真円の思想』です。

しかし、
『ブレない一つの中心軸を持った思想は排他的にならざるを得ない。すっきり、はっきりは、危険なのだ。』

合理性にはどこか穴がある、とずっと思っていました。

合理を突き詰めた行動に人間味はないと、思います。
何よりどこか寂しい。
僕を含め、人間は、あなたは、世の中は、真円で表せられるほどシンプルなものではないはずです。

対して、『楕円』は円の中に二つの中心点を持ちます。
本音と建前のように、正しい答えがたったひとつあるわけではなく、一つの物事には裏があります。

だからと言って本音を軽視してもいけないです。
いつかは本音だったことが美化されて建前となってしまい、みんなそれを信じて受け入れ過ぎている状態。
どちらに偏り過ぎても僕はそこに違和感を感じます。時に自分すら疑いたくなります。
排反性を背負って生きるのは筋が通っていないように映りますが、二つの矛盾したものを抱え込めるのが、僕の目指すところです。それが筋です。



おしまい

久しぶりにこれだけ長い記事を書いたので疲れました。

疲れたけど、言葉が好きだと気がつけたこと、きっかけに対する感想を形にできたことに満足しているし、ワクワクしています。

この本に出会えてよかったなあと思います。
今回触れたところ以外にもエコやオーガニック志向に対する疑念を「厚塗りしたナチュラルメイク」と揶揄している箇所があったり、色々と紹介したいんですが、これ以上やるといよいよ僕の紹介文を読むより本文を読むほうが数段楽になってしまうのでやめます。
とにかくユーモアに富んでいて的を射ていて読みやすい。言葉のプロってすごいなあと感心するばかりでした。ぜひ読んでみてください。おしまい。