眼球越しの私の世カイ

俺越しの「世カイ」の話

「界隈」のキモさと窮屈さ

特定の集団をディスるわけじゃないけど界隈ってめっちゃ窮屈で不自由やと思います。

新しい人間関係を築けば必ず付いてくるもので、人との関わりの中で避けて通れないもの。

例えばビジネスをしますってなったらその界隈の人とのつながりが生まれるけどその分のしがらみや不自由さも生まれてくる。

バンドをしますってなったらある程度他のバンドマンに顔向けできる範疇での発言や活動が強いられる。

 

仕方ないとした上で思うんですけど、気持ち悪いです。

誰かにとって居心地がいいところは誰かにとって近寄り難いところです。

ビジネスマンがビジネスマンから、バンドマンがバンドマンから集めるいいねは羊同士の合体です。

それで世界は平和なんかもしれんけど、俺は、こいつ誰?みたいな人との繋がりを大事にしたい。し、いろんな界隈からこいつ誰?って思われてたい。

 

まぁ、どの界隈からも孤立して繋がりもクソもない本物のボッチなんですけど、1人で感じる孤独は結構耐えれるもんです。

集団の中で感じる孤独はめちゃくちゃ辛いです。

どこかに属していながらも、一瞬フワッと自分が浮く感覚ほど胃が縮こまることないです。

 

とはいえこんなこと言ってると人との繋がりを否定するんかって思われそうやけど、別にそういうことじゃなくて、自分が確固たる自分を持つ場はあるべきやってことです。

俺が俺の持つ各界隈との馴れ合いをする事で、それを尻目に離れて行く人がいるなら、最初から誰かを意識する事なく言葉を発したいし自分を晒したい。

めっちゃ難しいんやけど。

 

その上で俺を見てくれる人は実はいっぱいいるから、なんか、優しいなって思います。

 

それぞれを忘れることはないし、関わってきたコミュニティ全部結構好きやからこそ、「浮いてんなぁコイツ笑」みたいに思われてることも良しとして、自分を晒していこうと思ってます。

 

それがこの変なブログやったりツイッターやったり、、

俺が世に出てる部分、大体そうかも。

 

サークルの為のつぶやき、恋人の為のつぶやき、先輩や後輩の為、友達の為、別にいいよ、俺もたまにするし。

ただ、好きやからこそどこから見ても不自然な剥き出しの俺が公にいることはもっと大事な気がする。

投げキッスをあげるよ

twitterとかinstaの存在意義って何なんやろって度々なってました。

かつての自分の捉え方としては、情報収集の場、と、承認欲の解消、やと思ってました。

 

で、一定期間やめてみて、どっちの役割も大して機能してないなって思いました。

情報は腐るほど流れてるけど、受動的に手にする情報はバズってるものが多いからみんなの目にすでに触れていて新鮮味がありません。何なら、多くの人が正しいとか素晴らしいと思ったものが拡散される世界やから個性に大差がなくなって意見が腐ってんちゃうの?とすら思いますね。フリーメイソンの陰謀や〜〜〜みたいな展開ですね。

 

わかる人にはわかるみたいな結局何がいいんかわからん良さ(ややこしい)ってどんどん埋もれて行くんちゃうかなあ。

 

淘汰されて行く素晴らしい生き方、おもんないなあ。

 

で承認欲については、無理やろ、こんなツールで承認欲満たすなんて。ってなりつつあります。

これまで自分の化けの皮を引っぺがすつもりでいろんな角度から自分を晒してきたつもりではいたけど、無理や。

もがくほどに滑稽に空回りしてる哀れなナルシストが出来上がる。

結局人は人のことを付加価値的な部分で興味を持って接することを決めるわけやから。

ましてや何千人の呟きの中で異彩を放つには、「これ、本音なんでみてください」なんて何の効力もないな、って思いましたー。極端に自分の付加価値を誇示しないと。

そうでもないのに興味持ってくれる人は天使か何かかなって思います。

センスありますね。🐭

 

よく人に興味なさそうって言われるんやけど、何でやろって思ったら自分に興味を集めたすぎるからなんかなって思って。

 

なので、一回、ある種自分を諦めて、みんなを真剣にみてみようと思います。

 

滑稽に空回りしたことがある哀れなナルシストなら、自分を犠牲にすりゃ滑稽なみんなにも投げキッスがあげられるんじゃないかなって。ことで。

 

まあ自分を諦めたわけでもないんやけど。

 

散々毒を溜め込んで、発散して、諦めて、また溜め込んで、みたいなの疲れたんで。

博愛や。

 

きも。宗教みたい。

とにかく、神は、横田は、あなたをみていますよ。

 

 

 

ほんまにきもい。笑

人を見るためのツールってことにやっと気づいたってだけの話なんですけどね。

 

絶望と諦め。「実感」に刺さるバンドandymori

先に言っておきます、結構たくさん動画を埋め込んでいますが、思いつきで貼ってるものですし飛ばして読んでも全然いいです。

全ての曲を聴いた上で何となーく貼ったものなんで、興味が湧いた人は選ばずに聴いてもらっていいと思います。

 

あと見出しとか何もなくて読みづらくてごめんなさい、久しぶりやから許してください、何にもしませんけど。

 

andymoriというバンドの話です。

いろんな経験をして今という日があって、やっぱりこのバンドに出会えてよかったなって数年越しに思っています。

 

自己肯定感が欲しい人、ゆるく幸せな人、ゆるく不幸な人、日々がだるい人、音楽とはなにかがわからんくなってる人、死にたい人、には是非聞いてほしい。

 

このバンドに出会ったのは中学2年生ぐらいのときかな、アルバム「革命」が出てた頃なので2011年。

多分そんなもんです。

同級生で知ってた人はほとんどおらんかったからめっちゃマイナーやと思ってたけど、今思うと全盛期を見てたんやなーって思います。

ゴリゴリのプッシュを受けてたわけでもないけど業界の中では高い評価を受けてたらしいし。どうでもいいけど。

と言うわけでとりあえずこのバンドとの出会いの曲を貼りますんで聞いてください。(MV公開日が2013年になってるけど多分レーベルのあれやこれやで公開し直したんじゃないかなーと思います)


andymori "革命"

 

友達づてに聞いたわけでもなく親が知ってたわけでもなくyoutubeで自力でたどり着いて、惚れたって感じの初めてのバンドです。

どうでもいいけど、あなたへのおすすめっていう機能ほんまにすごいよね。

 

で、どうですかね聞いてみて。

ここでしょーもないってなったならまぁそこまでなんですけど、興味あったら引き続き読んでください。

 

当時のまだまだ音楽的知識も乏しかった俺からするとまず短さが斬新に感じました。

あと少年みたいな歌声と、なんの小細工もないクッソ簡単なコード進行。

歌詞は斬新かっていうとそうでもないんですけどそれがすごいとこで、そこまで斬新じゃないことを実感に刺さるように歌える声とキャラクターと音楽性が彼らにはあると思うんです。

100回1000回1万回さけんだって伝わらない届かない思いは

100日1000日1万日経った後できっと誰かの心に風を吹かせるんだ

andymoriが叫んだ思いは数千日経った今も俺の心に風を吹かせてますからね。

 

すごい歌詞って「わかる」みたいな誰もが持つ感覚を誰もが予想しない角度や言い回しから突きつけて来るみたいなイメージがあるんですけど、andymoriはあんまりドキッとする言い回しは多くないです。

あったとしても曲の陽気さやエモさに隠れがちで。

ありきたりなことをいかに自分のものとして吐けるか、みたいな感じがします。

 

さらに、

気付く人がどれだけいるか、勘違いかもしれませんが、絶望感や諦めが垣間見える気がするんです。その哀愁がすごい。

『冷蔵庫の前うろつく』とか、『いつもの自販機でコーラ買う』とか、リアルな「停滞、もどかしさ」を味わったことがある人間が表現するベットリとした現実世界を感じます。

小説にしてもなんにしてもこの感じすごく嫌いやけど、めちゃ印象に残るし結局すごく好きです。

 

「日々」という物の捉え方が実はすごくネガティヴ。

『いつも最低いつも最低最高最低』

そのぐらいのペースで毎日は巡ってる。

『楽園なんてないよ、楽園なんてあるわけない』

俺らの日々は大したものでもない。


andymori "Life Is Party"

 

その上でどう生きるべきかって言う答えがありきたりでゆるくて多幸感であふれていて、沁みる。そんな感じ。

『大丈夫ですよ』とか、『世界で一番お前が正しいんだよ』とか、『宇宙の果てはこの目の前に』とか、「どうでもいいやんけ」って感じでそんな日々をあしらってくれる。


andymori「投げKISSをあげるよ」〜SWEET LOVE SHOWER2012〜


クレイジークレイマー andymori

 

総括するとandymoriは実感を救ってくれる。

 

最近すごく思うことなんですけど、生きる上で哲学や思想なんて無くても良くて、大事なのは実感なんです。(賢くなりたいとか考える力が欲しいなら別です。ただ「生きる」ことにおいての話)

これが充実してるかしてないかだけで人は生きたり死んだりするんです。

 

だからバカがバカの価値観でした恋愛をバカなりに歌に落とし込んでバカに寄り添ったフリして売りつけた曲がヒットすることもある。

それくらい実感ってものは大事やし何を起こすかわからない。誰とは言ってないけどなんかごめん。

 

そしてボーカルの小山田さんもその重要性を強く感じる体験(多くは語らないので気になる人は調べて)に基づいて、思想や哲学はとりあえずそっちのけに、ただただ主観的に実感を歌にしているんだと思います。

単純に姉や、友や、家族や、被災者など、その時自分が歌を送りたかった人に向けて歌ってるだけなんだけど、その中身や姿にはどうしても自分を重ねたくなる。そういう歌が多いなーって思います。


andymori 2nd LIVE DVDより"Peace"


andymori "兄弟"

 

暗い経験に暗い歌を、ではなく、暗い経験に基づいた明るい歌を。


andymori 「光」

 

彼らは心底正義とか栄光とかに興味が無くて、実感の中で如何に生きるかってことが重要なんやとおもいます。

 

andymoriラストライブはまるで過程にいるバンドのようなものだったって、よく聞きます。

日本武道館でやったそんなライブの数ヶ月後、夜中の商店街で十数人に囲まれながら歌を歌う。こんなに媚びずに素直に実感のために生きてるミュージシャンがいるんかって、惚れてしまう。


小山田壮平 ハッピーエンド(andymori) [2016.5.8]

 

音楽は生きるために必要かみたいな話はいつの時代も尽きんけど、一部の人にとっては手短な趣向品でしかないんかなと思います。(というのもRADの曲に対する浅はかすぎる批判を見て思ったんですけど。)

そういう中、

実感に刺さる音楽は必要とまでは行かなくても楽にしてくれる薬にはなり得ると思います。

セックス・ピストルズから尾崎豊まで、いつの時代も一斉を風靡したのはそういう人間のそういう音楽やとおもいます。

たとえ時代が変わっても、争いは止まないし欲しいものは尽きないし悲しみは消えないので、この類の音楽は必要とされ続けると思います。


andymori "Sunrise&Sunset"

 

他にも、旅と人種とアイデンティティという視点についてや、同じ単語が違う曲にも多用されていることなど、語りたいポイントや見方はかなりたくさんあるバンドなんですが、なんだか疲れてしまったのでこの辺で終わっておきます。


andymori 「シンガー」

 

 

考えることをやめて、考えることをはじめよう

言語ってどうすれば上達するのか。

なぜ子供のうちから外国語を習うのは良いこととされているのか。

色々考えてみました。

 

原体験なるものが人にはあるらしいです。

具体的に辞書から引いたものを引用すると、

記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験

あるいは

その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。

ですって。

 

まあ海外経験というのはこの原体験に含まれるだろうし、思想形成に大きな影響を与えるのかもしれませんね。

 

とはいえそれは何んともいえない自分というものを実感する「感じ」でしかなくて、自分でもその「感じ」を把握するためには言語を介してその「感じ」そのものを育てる必要があると思います。それが思想、と。

 

なので結局思想って、言語を介して形成されるものやと思うんですよね。最終的には。
言語化する材料「感じ」がなければ何も生まれないのも確かですけど。

 

では言語がなければ複雑な思考は生まれないのか、というと、すでに言語を持ってしまっている我々にはその答えはわからないですね。

でも、難しい言葉を知ってそれを説明して、その説明のためにも言葉を知って、、ある意味思考はそれを表現できうる言語によって支配されているし、言語もまた思考を介してしか進化し得ないんだと思います。

海外では、言葉遣いを通じて、その人の思考を覗き、上流か下流かなど人としての価値を値踏みするなんてことが当たり前に起こっています。
同じような言葉遣いをする人って性格も似てくるじゃないですか。

あとー、ほら、国によって(言語によって)虹の色の数が変わるとか有名な話ですよね。

、、などという具体例を納得できてしまうのが言葉と思考が共依存しているっていうことなんじゃないですかね。

雑なまとめ方やけど、ひとまずそういうことにさせてください。

 

まとめちゃうと

考えることで人は言語を習得するんです。

 

「小さい頃から海外に行っとくべきだよ」とかいうお決まりのアレは、

物事もそれを考えることも、よく知らないけど、よく知らないからこそ試行しまくるあの頃が最も言語を欲する時期やからやと思います。

何でも説明してほしいし納得したいし、自分の中で考えたいじゃないですか。

その道具として英語が転がってたらそれを拾って考え出すし、日本語が転がってたら日本語で考え出すんです。

 

クソ当たり前なこと言ってるけど大丈夫かなこれ。

 

あ、でもそれを当たり前と思わんから日本語を介して英語を習得しようとする、みたいな愚かな教育が当たり前になるんか。すみません中高の英語めっちゃ嫌いなんです。

紙辞書こそ至高、参考書に手垢をつけてどうこう、、あーうざ。

自慢じゃないですけど英語の成績真ん中以下でしたからね。goddamn.

 

で、めでたく俺ももう大人ですけど、何で世間一般に大人は言語習得がうまくないと言われているのか。

脳がどうこうとかあるんでしょうけど、俺の持論では、ある程度考えることが達してしまっているし、何より一つの道具が便利になりすぎていることが原因やと思います。

 

考えることをやめればいいんちゃうかなって思います。

で、英語なら英語で、ドイツ語ならドイツ語で、考えることを始める。

 

賢ければ賢いほど、考えることが好きであればあるほど難しいことやから一筋縄ではいかないんでしょうね。

なんか矛盾してますよね、勤勉であるほどいいっていうのが常識じゃないですか。

でも無を作り出して自分の血管に染み渡らせることができる人がネイティブとか天才とかそういう類の呼ばれ方をするんやと思います。

未熟、何もない、それらの価値は全てを凌ぐ可能性を持ってるんやなあって、思いますね。

理論上、天才は作れる。

 

こんなこと考えんのも一回やめんとなあ。

 

 

 

神様、仏様、猫様、俺様

絵を描いておられる、

池永朱里さん(@ikenagamisa)

作品はこちらから↓

ymdmk.tumblr.com

 

ツイッターでフォロワー1000人記念プレゼント企画がありまして、それに当選しました。

こういう類の当たった人がいいそうなテンプレですけど、

「こういうのってほんまに当たるんですね笑」

 

初めて彼女の絵を見たのは多分、(確かではないです)揺らぎ(@_yuragi_yura)というバンドのレコ発の時でした。

演奏をしているステージの前方、壁際に制作スペースが設けられていて演奏とともにリアルタイムで絵が完成していくというものでした。

他にも甘酒が振る舞われたり、ライブハウスにはちょくちょく行きますが、イベントとして一番印象に残っています。

ちょっとそれますけど、パンクやらロックやらアンダーグラウンドやら言って、一番革新的であるはずの人らが「激しい」とかそういうことに囚われてて、目新しいものに排他的で全然ロックじゃないみたいなんあるあるですよね。

そういう点ではいい意味で違和感だらけで、ロックでした。

 

 あれからどれだけの年月が経ったのか、わからないですけど、あの時にも見ていたはずの絵に最近なぜか惹かれるようになりました。

 

誤解を恐れた上で言いますが、

多分俺が他人を認める(というか才能を認める)基準はほんまにガチガチに硬くて、なかなかすごさを承認できないというか、とにかくひねくれてるんです。

その人にしか持ち得ないものに自分も負けたくないし、持っていたい、そういう拒絶が起こりがちな気がします。

 

以前書いた他人に対する価値観と真逆のように見えると思いますが、他人は賢いっていうところはぶれずにずっと思っています。

その記事も貼っときます。

 

kailyokota.hatenablog.com

 でも結局、自分は特別やとも思っています。

そんな回想の中で、やっぱり行動できる人間のすごさというか強さに惹かれ、嫉妬し、素直になれる時期がやっときたように思います。

 

思ってることがいくら崇高でも声に出して、行動に移さなければ何も起こらない。

元々わかってたことやったけど、ブログを始めなかったら、ずっと「俺はやればできる」って思い込んで自己肯定と自責を繰り返していたと思います。

 

そういう自分にやっとすんなり溶け込んできたものの一つが彼女の絵でした。

 

池永朱里さんをフォローしたのも最近のことです。

彼女の幅広い精力的な活動が俺にそう思わせたんでしょうけど、だとするなら余計に、行動することって大事やなって思います。

 

彼女はあれだけいろんなところで動いているにもかかわらず、出会うきっかけをいろんなところで仕掛けているにもかかわらず、ここに至るまでなんとも思わずに過ごしてきました。

 

ってことは、ブログなんて誰にでもできることをやって理解されたいなんて喚いてても知れてるんですよね、行動の大事さが身にしみますね。

 

こんな薄っぺらい文章になってしまって不甲斐ない。

 

とにかく、

なんで俺がこの絵を受け取ることになったのか、なぜ俺はこのタイミングでこの絵に惹かれたのか、意味があるように思えてならないです。

 

あまりにも大げさで、恥ずかしい文章であることは百も承知です、し、これが他人の身に起きたことならやっぱり目もくれないでしょう。

でもそう思うことで何か起こるんちゃうかなって思っています。

 

こんなことを言っておいて、

奇跡とか運命とか、そういうものってやっぱり、多分、信じてないです。

 

人はみんな無意識に生活を物語にしていて、いたるところに自ら伏線を張り巡らせています。

良いものも悪いものも。

大概その伏線は回収できずにことが終わっていくので、自分が伏線を張っている自覚もなく日々を過ごし続けます。

ただ何万回に一回、もしくはさらに少ない割合でうまく伏線を回収することがあり、そんなとき人は「そんな気がしてたねんなあ」とか、言いたがるんです。

それを奇跡とか運命とみんな呼びたがってるんやなあって他人事に思えた時はそう思ってました。

 

でもそうやって物語を積み上げることで(人生をドラマチックなものと捉えることで)人は成功を勝ち取ったり、幸せを感じたり、新たなきっかけをつかんだりするんやと思います。思考は現実化するみたいな。

引き寄せの法則とかバタフライ効果でしたっけ?そういうやつ。

 

とにかく、豊かで居たいなら「運命」や「奇跡」は「必要な勘違い」やと思います。

 

運命や奇跡は信じないと言っておきながら、また転じて、あえて言います。

この絵との出会いは俺にとっての運命であり奇跡だと思います。

 

ここまで分析した上でそんな生き方をするなんてめっちゃ冷めた見方ですけど、運命や奇跡を盲信するより、その意味を信じて生きていける気がします。

 

神様、仏様、猫様、俺様ありがとう。

 

 

世界は狭いけど、いっぱいある。

一般的に世界とは一続きに繋がっている共通の空間のことです。

全ての社会の集合、全人類の社会のこと。

 

最近、もはや海外も身近なものになり(現にこうして日本のみんなと普通にやりとりできてるし)、「世界って狭いなー」みたいな考え方が広がってるように思います。

 

確かにそれはそうで、ドイツの語学学校に行けば日本人はいるし、その人たちとしばらく話してたら必ず誰かしら同士で「マジで?◯◯出身だったの?」みたいな会話が始まってます。

 

やから、実際海外にいても感じることです。

世界って狭いなあって。

 

でもそういう風潮に対して、だからって日本の常識が通用するかって言ったら、んなわけはないんです。当たり前やけど。

 

当たり前の感覚が通じないっていうことは違う世界にいるような感覚になります。

だから、挑戦とか本気とかそういう言葉を日本では簡単に使えたけどなんか恥ずかしくなってきます。

 

マセていく周りの同級生に食らいつくように必死に背伸びしていた小学校高学年の頃みたいな感覚になります。

 

社会の数だけ「常識」や「当たり前」はあって、

そこには必ずそれらに縛られた「挑戦」や「努力」という概念が存在します。

これらを包括して「世界」は分かれているように思います

 

国だけが世界を決めるものじゃないです、業界、年齢、性別、いろんなとこで世界の境界は分かれています。

 

全く違う世界に身を投げ入れた時、頑張るってどういうことか、

その頑張りがそもそもどれだけ環境に囚われたものか、自分の中がぐらっぐらに揺れます。

 

kailyokota.hatenablog.com

 

目指していたものが、夢が、所変わればすごくちっぽけなものとして扱われていて、なんとなく不安になることもあると思います。

そして、これはなんとなくですけど、ものすごい勢いでこれから日本には「違う生き物たちの価値観」が押し寄せてくるような気がします。 

 

大事なのは結局どんな自分でありたいかってことで、他人への憧れや良いとされるものにしがみつくと、いとも簡単に振り落とされるような気がします。 

 

そういう意味では、世界って広いんちゃうかな。

 

いや、多い。世界は世界だらけです。

 

 

21年

21になりました多分。

日本時間かドイツ時間かどっちが正解?って今日本にいる父から来たんやけど、わからん。

で、

ハタチの俺は何をしてたか。

あんま無いですねー印象が。

記憶力はいい方だと思うんですけど。

19から20にかけては、体調崩して寝てました、外の天気は悪くて、なんかこのまま大人になるのもなって思って23:58から腹筋してました。

体調も悪いし日またぐ前にくたばったけど。

 

そういえば年末も同じことを思いました、「2017年は俺にとって何もなかったな」って。

自分でアクションを起こすこともしなくて、

ひどくそれを後悔したというか、

何も感じていない自分にショックが重くのしかかってきて、

数ヶ月ぶらぶらと不安定な精神状態でしたw

[下書きシリーズ]って書いてますけど、多くの下書きを溜め込んだ時期やと思いますw

 

普通ならこういう節目で気合いを入れ直して、「新しい俺は、、、」的なことを思うんでしょうけどそういう考え方向いてないし、ネガティブな自分が嫌いなわけでも無いんで、こういう人間性を抱えられる自分をそれはそれで受け入れて、生きていこうと思います。

 

kailyokota.hatenablog.com

 

やりたいことをやりたい時にやりたいようにする。

やりたいことをやらなきゃいけないことにはしない。

そんな感じで行こうかなと思います。

 

 

新しい自分とか過去の自分とか、時間軸で自分を切り分ける考え方好きじゃ無いんです。

あの時の自分が今の自分を作ってるのを知ってるので。

それもまた記憶力がいいから覚えてるだけなんでしょうけど。

「あの日の自分が許せない」とか、思ったこと一度もないです。

思ったふりをしたことはあるけど。

あの日の自分の感情を今の自分でも十分理解できるので。

だって自分やし。

上手く仲良くなれんかった友達のこととか、好きやった女の子のこととか、弟や妹への罪悪感とか(これはめっちゃ強い)、嬉しかったことも悲しかったことも、今でも嬉しいし悲しいし切ない。

 

成人式の日に、中学生の時の自分から手紙をもらいました。

「今のあなたになるために中学生の自分は、いろいろ頑張ってます。どうあろうとあなたを目指します。」的なことが書いてあったんですけど、

いや、それ書いたん覚えてるしw

まるで未来の自分を他人に見立てて手紙書いてる自分が恥ずいだけやんw

って、その時の感じを思い出して恥ずかしくなっただけでした。

手紙はその日の同窓会の会場で酔っ払って無くしました。

 

見た目だけでなく、人との接し方や見せかけの「内面っぽい部分」も含めて、絶えず俺の外見(そとみ)は変わっていきますが、ほんまにあん時の俺は死んでないです。

幼小中高大、それ以外のところで関わっていた全ての人に向けて、

また会いたいし話したいです。21になれました。あざす。