ロンドンに行ってきた話~1日目~
2月の2日から5日にかけて、イギリスのロンドンに行ってきました。
早いもので、僕がヨーロッパにいるのも、もう残り1ヶ月に差し迫ってきました。
そう言う焦りもあって、週末は旅行ラッシュというか、どこかに出かけようと、そういうことです。
今回ロンドンに行くことを決めたのは、一つに、高校時代の友人がいたこと(友達と話せるし案内してくれるし宿代浮くしなんかエモいし最高やん)、もう一つに、ちゃんと英語圏の国に行った経験がなかったことです。(唯一訪れたことがあるのはサイパンですが、日本語を話せる人がうじゃうじゃいました)
英語というぐらいだから、英国行っときゃいいでしょ、そんな感じの安易な発想です。
とはいえ英国人の英語はめっちゃ聞き取りづらいです。それは以前通っていた語学学校のクラスメイトのロンドンっ子と話していて痛感していました。
早いし、なんかクセがすごい。クセがすごい。
千鳥のノブみたいな語り口調を使えばウケると思ってる人が一定数存在していた日本は今どうですか?金属バットの西成語がトレンドでおまっか?
まあよろしいがな。
2月の2日から5日と、冒頭で書きはしましたが、移動手段は飛行機、しかもそのフライトはいずれも朝早い時刻のものだったので、この旅行記は2月1日から始まります。
フライトの時刻は2月2日の朝6:50とかやったかな。ボーディングタイムは6:30ぐらいでした。
なんでかはよくわからないですけど国際線ならだいたいフライトの2時間前、国内線なら1時間前には空港についておくべきというのが世の中の旅行者たちのセオリーです。つまり、この日は5時ぐらいには空港にいるべきだということでした。
とはいえ一度寝て、まだほとんど夜というような早朝に目を覚まして空港に向かう自信は微塵もなかったので(僕という人間は本調子でいるためには10時間睡眠を要する高燃費人間なんです)、前日の夜から準備をして、2月1日を引きずったままデュッセルドルフ空港にいき、空港泊をしました。寝てないですけど。だからなんの問題もなく荷物検査もボーディングもクリアしてスムーズに飛行機に乗れました。
で、ついたのがロンドン・ヒースロー空港です。
ドイツとの時差1時間、フライト時間も1時間ちょっとだったので到着時間は朝7:10。
機内でせめてもがな掴み取った1時間の睡眠もなかったことにされたような気分。
ロンドンの第一印象は「寒い」。気温が低い上、風が冷たい。
次に印象に残ったのは、両替所で感じた、通貨のダサさと分かりにくさ。
ユーロ紙幣と張り合うおもちゃ感。ユーロ貨幣を遥かに凌駕する分かりにくさ。
20ペンスの方が10ペンスより小さいんかい。
個人的に、「円」って、お金としての見た目が最も厳かで説得力あるというか、ありがたみを感じます。まあその分生々しくていやらしくも見えるんですけど。
どうでもいいこと書きすぎなんでどんどん行きます。
ロンドンヒースローからロンドン市内までピカデリーラインという地下鉄で約1時間。(この電車の車両が恐ろしく狭くて窮屈。ふと顔を上げるとイギリス人ってみんな意外と小さい。)
友達が住んでいる最寄駅がかの有名なキングストン駅です。
ピンとこない人は童心に帰ってハリーポッターを読み直しましょう。
9 3/4線ホーム入り口では、壁に半分埋まったカートと写真を撮るためだけに、ユニバのアトラクションばりに人が並んでました。
友達と合流してとりあえず朝食。
駅を出て友人の家に向かうまでの道中で気が付いたことは、信号無視がすごいこと。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」ってやつ、たまに耳にしますけど、この景色を見た瞬間あれはイギリス人に対する皮肉だったのかと思うほどの見事な横断でした。
さあ荷物を解いて、まず向かったのは、ナショナルギャラリーという美術館、のすぐ近くのドーバーストリートマーケットロンドン。
コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)のデザイナー川久保玲がディレクションするセレクトショップで、その本店こそがここロンドンのものです。
楽しかったですねー。なんか日本人ってブランド志向が強くてミーハーだから高いものは高い、それでも買う。ってイメージありますけど、ヨーロッパは若干、物質主義的なところもあるので(特にドイツ人、ミニマリズムとかノームコアとか好きな人口多い気がする。個人的な意見ですけど)経済活動の中で需要を生み出せなかったブランド品はどんどんアウトレット価格になるし、セール品として叩き売られる。
思い違いかもしれないですけど。
まあとにかく楽しかったです。服の美術館、ドーバー。
次にその足でナショナルギャラリーへ。
イギリスの国立美術館は基本的に入館料は無料なので、常設展を回るだけならとてもお得です。ただ、なんだか密度が高く、順路なんてものは存在しないので、見辛い上疲れる。ゆえに一貫した感想は持ちにくい、気がします。
正直ここではっきり覚えているのは数枚のゴッホとモネの池ぐらいです。
それから、名画とともに自撮りをかます滑稽なアジア人たち。
多分、とてもいい美術館ではありましたけど(なんせ3日かけて膨大な数の絵を見たので)。
橋を渡り、テムズ川沿いを歩き、次に足を踏み入れたのは、テートモダン。
20世紀以降のアート作品が集まった近現代美術館です。
目玉はピカソとダリ、だと思われます。面白かったですよ。
今僕が住んでいるドイツデュッセルドルフの芸大卒、ゲルハルトリヒターの絵のみが飾られた一部屋があったり、今まで見たどの作品よりも暗くて巨大なモネの睡蓮があったり、大掛かりなインスタレーションがあったり。あと、展望台もあって、ここからテムズ川を含むロンドンの町並みを見下ろすことができます。
ちなみに「ロンドンといえば」のビッグベンは修理中のようで、四方を綺麗に足場で囲まれて、さながら「灰色の楼閣」といったような風貌でした。つまり全くロンドン的ではありませんでした。ロンドンに対して、なんでもあるけどつかみどころのないゴチャッとした雰囲気だと思ったのは、ビッグベンの修理、これゆえかもしれません。
テートモダンを後にして、昼食を求め中華街に行きました。
イギリスの飯はまずい、その覚悟はあっさり無意味なものになりました。
決して飯がうまかったわけではないです。人が多すぎて「イギリスの飯」を食うに至らなかったんです。一緒にいた友達曰く、「4ヶ月ここにいるけど今日ほど人が多い日はなかった。」ということらしいです。
しばらく中華街をうろついて、結局仕方なくマクドにいって(流石に美味いもまずいもない、全世界共通の味)昼食を済ませました。久しぶりにあった高校時代の同級生との昼飯がロンドンに来てなおマクドっていうのは、それはそれで粋です。
次、V&A博物館。正式名称ヴィクトリアアンドアルバート博物館。
芸術とデザインを主に、3000年あまりに及ぶ世界文明の遺物が蒐集されている博物館。
その内容は、陶磁器、家具、ガラス細工、衣類、写真、金属、宝石、絵画、彫刻、、、
と、多岐にわたっていて、まさに「博物館」という感じ。
しかも僕が向かったその日から、Diorの特別展が開かれており、クリスチャンディオール自信のルーツからブランドの歴史、各年代、各ディレクターのコレクションの現物、などを目にすることができる特別展示会が行われてました(これは有料)。
で、チケットを買おうと思ったら、今日の分は売り切れ。(内心疲れていたのでまあ明日でいいやって感じ。)翌日の11時からのチケットを購入してそこは去りました。
それから、そこそこ有名らしい百貨店みたいなところに行って靴や服を見ました。(友達が靴を買っていました)
イギリスには有名なファッション系の大学も数多くありますが、何より街がそういった若い世代のデザイナーやブランドを持ち上げている感じがします。
ネット上でしか見たことのなかった新進気鋭のブランドの数々が多数、それも一箇所にあるという状況が、あーなんかすごい街なんやな、と思いました。
疲れ切ってロンドンバスの二階。
高三のクラス初日、名前順という指定席で前後の席に座ってたヤ行の苗字の友達。今ロンドンバスの二階で疲れ切って隣に座ってる、なんかエモ。
ロンドン初日の晩御飯はインド料理でした。
というのも、かつてイギリスが統治下に置いていたインドと香港発祥のご飯は割と美味しいと聞いていたので。
普通でした。ロンドンでの晩御飯にしては安かったし。
仮にここで暮らせと言われても死にはしないかなと思える一要素にはなりうる。
帰り際にスーパーに寄ってコーラを買おうと思ったのですが、なんか普通のコーラが小さい。
不思議に思って友人に聞くと、イギリスにはシュガータックスなるものがあるらしく、それで、隣に並ぶダイエットコーラと値段を釣り合わせようと思うとサイズを小さくするしかないということらしいです。
友達の寮の庭には白く、透き通った綺麗な毛並みを持つ猫がいました。住人に可愛がられているみたいです。
ドイツの街中では犬はよく見かけますけど、猫は室内での飼育が徹底されていて、なかなかお目にかかれません。野良猫なんか本当にほとんどいません。
バイト先の人によると、ドイツには犬の死刑制度すら存在するらしいです。(調べたところ、正確には市民に危害を与える可能性がある場合警察官が射殺する規定が存在するということのようです。)
ほんまかいなって感じですけど、まあそれくらい欧米は動物の管理に徹底しているので、猫を見る、触れる、っていうのがすごく久しぶりで、変な気分でした。
長くなりそうな上飽きそうなので、日毎に記事にします。1日目はこんな感じでした。次は2日目です、また次回の記事もよかったらどうぞ。
フランクフルトに行ってきた話
ドイツに来てなんだかんだでもう9ヶ月ちょっと。
目標だったバイトも始めてから4ヶ月弱。
語学学校も含めて、生活には慣れてしまったけれど、僕が必要なのは資格でもなんでもなく、経験だ。と思い立ち、学校はやめることにしました。
その代わり、空いた日にはなるべくいろんなところに行き、いろんな人と喋り、習慣や惰性から抜け出す努力をしようともがいています。
お店のお客さんと話す機会も増えました。
大前提として今年は座る時間と横になる時間を減らすこと。
本を読んだり、写真を撮ったり、日記を書いたり、まあそれなりには充実していると思います。
最近はいろんな喫茶店に行ってカプチーノを飲み比べることにはまっています。
全然味の違いはわからないけど。
そんなわけで、バイトは基本的に平日だけなので土日を利用して、フランクフルトという街に行ってきました。
受験期に同じ予備校に通っていて今同じ大学に行っている友達もいたので、正直なところ彼に会いにいったようなものですけど。
あの頃は全く話さなかったし、「横田くん」と呼ばれていたような距離感のある関係だったのに、まさか異国の地で二人きりで会うほどの関係になるとは思ってもいませんでした。
話は戻ってこれはフランクフルト中央駅です。
今回も例に漏れず移動手段は激安バスFlixbusです。
フランクフルトといえば、
ヨーロッパの経済の中心地。
欧州中央銀行をはじめとして挙げきれないほどの金融機関が密集する地域でヨーロッパの都市としては珍しく高層ビルが立ち並ぶ街です。
第二次世界大戦の時に爆撃で甚大な被害を受けているようで、アルトシュタット(直訳で古い街)という地区もあるにはあるんですが友達はノイェスアルトシュタット(直訳で新しい古い街)と呼んでいました。
個人的に煉瓦造りよりもビルの方が好きなので面白い景色でした。
今の人間が生きる為に格好つけずに作ったリアルな街っていう感じ。
必要なものができて、必要なものが残って、汚くあるべき場所が汚されて、美しくあるべきものが磨かれた、不恰好でアンバランスな街並みにそんなリアリティを感じました。
晩御飯はカフェという名の何でも屋さんに入ってこの辺でメジャーなビールを飲みました。なんかパンみたいな味。濃い。
ここから旅の話関係なくなるんですけど、友達と夜ジブリ映画を二本も見ました。
なんでここにきてまでって話ですけど。
もののけ姫の冒頭のセリフ暗唱するような変なやつなんです、許してやってください。
彼とは就活、恋愛、政治、下ネタ、、、本当にいろんな話をするんですけど、今回なぜか一番印象に残ってるのが、「耳をすませば」の感想でした。
「夢を追う若者が身を削って努力して、最終的に帰着するところが『勉学』というのが深い」
だから何ってことでもないけど、彼が目をつけたこの着地点がゆらゆらとなんとなく自分のなかに漂っています。
学校は離れましたが勉強はします。
僕は人でいる為に常に信仰の対象を探しています。
そしてそれは何かを知るたびに少しずつ移り変わります。
信仰が人を人たらしめる手がかりだとするならば、勉強は人であることを追求する行為かもしれません。
今のうちにフランクフルトに行けてやはりよかったです。
またどこかに行ったら、記事にします。
帰りたい帰れない さよなら カントリーロード
お後がよろしいんとちゃいまっかの。
「言葉」=表現,道具,世界
バイト先の人から借りた「日本語のへそ」という本を読んで、感銘を受けたというか、自分の言葉に対する感覚と共鳴する部分があまりにも多かったので、このブログを読んでくださる皆様にも紹介します。
まずこの本の著者である金田一秀穂という方、ご存知でしょうか?国語学、日本語教育学などの専門家らしいのですが、その言葉が正確に意味する職業は正直僕にはよくわかりません。
ただ、Q さまをはじめとするバラエティー番組などで見かけたことがあったので、あー穏やかで気の良さそうなおっちゃんやなあ、ぐらいの認識はありました。(最近滝沢カレンと仲良く話しているのを何かの番組でみました。)
そのイメージも相まって、強い語、トゲのある語を使っていても嫌味な感じのしない、説得力のある文章でした。
タイトルについて
では、内容について書いてみます。
特に面白かった部分を覚えている範囲で掻い摘んで書きますので、興味が湧いたらぜひ自分でも手にとってみてください。大学の授業を一つサボって昼休憩も費やせば十分読める量ですし。
まず、タイトルの『日本語のへそ』というのはどういう意味なのか、それは冒頭でこのような趣旨が述べられています。
時代は効率万能、コストパフォーマンスで全ての優先順位が決まってしまうけど、いい加減そんなものはやめろ、盛者必衰は真理である。
時代はAIとなり、効率や能率は無視すべきである。暇を楽しむ。
言葉、すなわち人や心の無駄遣いこそが今必要だ。
それはへそのように、なくてはならないけれど、なくてもいいようなもの。
言葉のへその力をこの本で知ってもらいたい。
かなり端折って自分の言葉にしてしまっているのですが大方こんな感じです。
まずこの大前提が自分の中の言葉に対する価値観と共鳴しました。
日本語特有の無駄な表現
そして日本語はムダの宝庫だと著者は語っています。
その最たる例が「人称」。
自分を示す一人称ですら、俺、僕、私、うち、、、古くを辿れば、拙者、とかもありますね。それが実は日本ではその人間の「位相」つまり社会的な立ち位置や人間性を示しています。
「人は見た目が9割」なんていう悲観的で救いのない盲信がいつの間にか流行って、多くの人の意識の中に根深くありますが、僕は嘘だと思っています。
せいぜい6割くらいかな。
美醜の価値観が時代や文化とともに移り変わっていったのも言葉があってこそだと思います。
何はともあれ、凝り固まった一人称はつまらない。どうせムダなものに囲まれているのだから楽しめた方がいい。
そう思って、あえてこの記事の冒頭でも普段使わない「僕」を忍び込ませてみました。
なんか小っ恥ずかしいけど、せっかくのムダを楽しめていなかったなと気づかされました。
思想や哲学があっちにいったりこっちにいったり、常に揺れているものだというのは僕のポリシーの中でありやと思います。大アリ。なのに言葉は「俺」や「関西弁」や「日本語」に支配されている。いくらか滑稽だったなと思いました。僕僕僕。
言葉に支配される人間たちのドラマ
『言葉は身近なバーチャルである』と著者は述べています。
しかも映像や画像や音など、どの表現とも違って曖昧さを存分に残しているため、より万能だということです。
例えば源氏物語の主人公、光源氏は、顔かたちをさほど描写していないため、ただ「絶世の美男子」としか書かれていないにも関わらず、1000年以上も各々が描く「絶世の美男子」としてイメージされ続けています。
こういった言葉の認識による刷り込みは生活のありとあらゆる部分にあふれていて、私たちはそれに支配されています。
良くも悪くも。
でも言葉はあくまで仮想的なものです。そして道具です。
そこに支配されきって、「にんげんだもの」の一言に癒され、安堵しているだけでは思考停止に陥ってしまいかねません。
所詮道具なんだから、使う側でありたいです。よね。
それから、自叙伝めいたものを書きたがるのはやめたほうがいいという話。
過去に僕も「人は人生にフラグを立ててドラマに仕立てたがるところがある。」みたいなことを書いたことがありますが、その類いのものだと思います。
『真実は一つの言葉に収められるほどシンプルでない場合がほとんどだ。』ですって。
全くその通りだと思います。
例えば高校時代、学校での英語の授業はほとんどなんの意味もなさないと考えていたからあまり真面目に受けていなかった。でも音読やシャドーイングはわりに真面目にやったし、有意義なものを選んで評価も得た。大学も受かった。
と言えばそうなりますが、事実には、辞書に手垢をつけろ云々抜かす教師が気に食わなくて不真面目であった側面も、眠くてやってられなかったという側面もあります。
『パターン化した伝説の中に収めたがる。そんなもの嘘である。』
言葉と嘘と自分の解釈
そして言葉は嘘をつくための道具でもある。と次の章に続きます。
いや、言葉がそもそも嘘であるとも言える、という話について僕が噛み砕いて解釈している内容を以下に書きます。
『これはりんごだという言葉があるが、共通認識として便宜上「りんご」という言葉をあてがっただけで「りんご」ではない。
これが「りんご」ではなく、感情を表すとなると言葉はもっと嘘くさくなる、というより嘘となる。
嬉しいや悲しい、愛しているなんて共有のために無理やりあてがっているだけで、本当の心の中の情動のようなものに名はない。
言葉によってものを考え、コミュニケーションを図っている僕たちは、嘘によって生きているとも言い換えられる。』
あなたのいう「愛している」と僕のいう「愛している」はまるで違うものかもしれないんです。怖いね。
この感覚を僕はこの本を読む以前は「宇宙」ということにして解釈していました。
「それぞれの感情の集合体=大きな宇宙」が人類の中には共有されていて、個人は個人の銀河をそれぞれ心に有しているんです。
言葉という星や太陽系や惑星みたいなものを持っている。
例えば「愛している」という星があったとしてそれは表面の70パーセントを水分で覆われていて、残りの30パーセントが岩石、というような特徴を持っているとします。
、、、とおおよその意味を与えられた上で、個人は個人の観測できる星の中からそれに似たものを見つけ、「あーこれが例の『愛している』かあ」と納得してその後そう呼びます。
でも実は、違う銀河を持つ別人が見ている「愛している」とその人が見るそれは微妙に違うんです。よく似たものではありますが、れっきとした違う、「表面の70パーセントを水分で覆われていて、残りの30パーセントが岩石の星」なんです。
その星同士の距離は果てしないし、絶対にたどり着けないところ同士でそれぞれが「愛している」を発見している。
言葉とそれが指すものの差異とはこんなものだと僕は思っていました。
その微妙なズレの重なりが価値観の違いだとか感性の違いに結びついているような気もします。
だけどその嘘っぽい感じというかニュアンスのすれ違いをなんとなく嗅ぎ分ける嗅覚も、補う能力も、人間は持ち合わせていると思います。
だからこそ、友達と飲みに行き、ジョッキを鳴らしたり、恋人と手をつないでデートをしたり、、そういった無言のコミュニケーションにみんなが価値を見出すのでしょう。言葉より有能な部分があるとその嗅覚が教えてくれているんだと。
自分の中で言葉をこねくり回すよりも一度の人との触れ合いがコミュニケーションとして意味を持つこともなんとなくみんなわかっているんではないでしょうか。
嘘を知らない人のこと
金田一さん曰く、自分の銀河の正しさを信じ嘘をつかない年齢が人間にはあって、その頃、人は見たもの感じたことをなんでも口にするようになるそうです。それが3歳から5歳くらい。ちょうど初めてのおつかいに出てくる子供たちの年齢ぐらいです。
『考えていることと出ている言葉と行動が一切嘘なく手をつないでいる。だからそれを見て感動するし、笑える。』なるほど。
もうちょっと成長すると嘘をつくことや、性的、暴力的な言葉として、発散するには憚られるものを覚えます。大の大人が何でもかんでも目にしたもの、思ったことを口にしながらおつかいをする光景なんかを流したらとんでもない放送事故になりますよね。
地獄です。
自分の胸に手を当ててもらえばそれがいかにひどい内容になるかは皆さんが一番よく知っているはずです。
本音と建前と楕円の思想
では最後に、最もこの本が僕の心を震わしたテーマについて触れて終わりたいと思います。
それは「第3章 言葉が示す『本音と建前』の世界」 の、特に『楕円の思想』と言い表している箇所にあたります。
「今」というのは本音が求められる時代です。
本音を痛快に代弁する政治家は当選するし、しょうもない日常の本音を語ったツイートには何万ものいいねがつく。
何が目的かわかりづらいいくつものテロ集団が生まれ、あらゆる性差が認められ、様々な情報に溢れる今の世の中は、多少辛辣でも白黒はっきりとしたことを言える人ほどちやほやされがちです。
曖昧な言葉は大衆に刺さらないし、そんな靄のかかった世の中に、単色はっきりとした本音は魅力的に映るんだと思います。
これこそが『真円の思想』です。
しかし、
『ブレない一つの中心軸を持った思想は排他的にならざるを得ない。すっきり、はっきりは、危険なのだ。』
合理性にはどこか穴がある、とずっと思っていました。
合理を突き詰めた行動に人間味はないと、思います。
何よりどこか寂しい。
僕を含め、人間は、あなたは、世の中は、真円で表せられるほどシンプルなものではないはずです。
対して、『楕円』は円の中に二つの中心点を持ちます。
本音と建前のように、正しい答えがたったひとつあるわけではなく、一つの物事には裏があります。
だからと言って本音を軽視してもいけないです。
いつかは本音だったことが美化されて建前となってしまい、みんなそれを信じて受け入れ過ぎている状態。
どちらに偏り過ぎても僕はそこに違和感を感じます。時に自分すら疑いたくなります。
排反性を背負って生きるのは筋が通っていないように映りますが、二つの矛盾したものを抱え込めるのが、僕の目指すところです。それが筋です。
おしまい
久しぶりにこれだけ長い記事を書いたので疲れました。
疲れたけど、言葉が好きだと気がつけたこと、きっかけに対する感想を形にできたことに満足しているし、ワクワクしています。
この本に出会えてよかったなあと思います。
今回触れたところ以外にもエコやオーガニック志向に対する疑念を「厚塗りしたナチュラルメイク」と揶揄している箇所があったり、色々と紹介したいんですが、これ以上やるといよいよ僕の紹介文を読むより本文を読むほうが数段楽になってしまうのでやめます。
とにかくユーモアに富んでいて的を射ていて読みやすい。言葉のプロってすごいなあと感心するばかりでした。ぜひ読んでみてください。おしまい。
希望を見せた人間の絶望は、絶望をみる人間の新たな希望
その流転の中でみんなが救われればいいのに
ベルギーアントワープに小旅行(2)
朝9時起床。シャワー浴びて軽く朝食。
ユースホステルって初めて使ったけど、なかなか人と話す機会を掴めない日本人にはめっちゃいいと思いました。
チェックアウトして、まずはルーベンスの家に向かいました。
イタリアに影響を強く受けていて、建築様式もイタリア風に自らデザインしているみたいです。
イタリアの生活からの影響は画風にも見られるらしいですが、わからん。
この人すごいですね。
7ヶ国語話せて、古典的知識を持つ学者でもあって、自らが美術品収集家で、外交官。子沢山。
個人的に思うことですけど古典知識が豊富な人間は面白い。
なぜなら生活においてほとんど必要ないからです。
無意味な知識を極められるくらい知への欲求が大きい。知を求めることこそ人間らしさだと思うので、なんか、深みを感じます。
古典知識はその国のスピリットみたいなものを自分の中に築き上げるためみたいな意味もあるらしいですけど。
旅の日記に関係ないので置いといて、
とりあえずルーベンスは一生かけて何枚描けるんやろみたいなものをいくつも残してます。
収集家ということもあって、いろんなものがありました。おもろかった。
で、とりあえずワッフル食べときました。
この世の中の全ての甘いものは「一個」が過剰。
食べながら歩いて、王立芸術アカデミーを通り過ぎ(思ってたより汚い)、MASという博物館なのか美術館なのかよくわからないところへ。
展示内容よりも建物のデザイン、景色がよかったです。
アントワープは大陸側ヨーロッパにおいて重要な役割を持つ港町だったので戦時中爆撃の標的だったみたいです。
なので街は20世紀の建物も多め。
古びたガチガチのレンガ造みたいな景色よりビルとかの方が好きなんでうまく融合していて個人的にはよかったです。
降りて教会の方に向かうとフリーマーケットが行われていました。
これ何となく欲しかったなぁ
味のある銀食器を買いました。
その後は古着屋を見たり、お土産のチョコレートを買ったり、バスの時間まで暇つぶし。
日曜日やったんでお店は結構閉まってました。
チョコ屋さん(高い)
最後になんか食べよーと思って何となく入ったマクドにサムライバーガーなるものがありましたがサムライの味はしませんでした。
先ほども言いましたが、アントワープは港町なので、ダイヤモンドの流通量が多いらしく、中央駅付近はジュエリーショップが建ち並んでいました。
中央駅着きました。月が綺麗ですね。
16:30、バスに乗り込んで帰路。
身分証明の提示を求められたので出そうとしたら、表紙の時点で「あ、もういい」って言われて日本のパスポートってすごいなーって思いました。
帰りはなぜかシートがめっちゃ広くて快適です。ディスってごめんFLIXBUS。
総括:ひとり旅はとても楽しいけど甘いものは誰かと食べたい。
動いただけやのに気が紛れるので旅は面白いです。
とても有益な二日間でした。
またどこか行きたいなあ。
DANK U
ベルギーアントワープに小旅行(1)
今ドイツで住んでるところがデュッセルドルフってとこなんですけど、オランダやベルギーが近くてアクセスが良いということで小旅行を決行しました。
ドイツにはFLIXBUSという格安交通手段があるので、それを使ってベルギーのアントワープにきました。
片道15ユーロしない。すごい。
ユースホステルは一泊20ユーロちょっとでシャワー、朝食付き。すごい。
7:45🇩🇪Düsseldorf発→10:30🇧🇪Antwerpen着
約3時間のバス移動を経てベルギーに到着。(このバスほんまにヨーロッパの人間が乗るんかよっていう狭さ。そして隣のおばちゃんがでかい。狭さマシマシ。)
どんっ中央駅。
ちなみにクソ寒かった。
最低気温1度やったらしい。
ここから20分ぐらいかけて小洒落た店をくぐり抜けながら古い街中を目指しました。
アントワープはモードファッション所縁の地でもあって綺麗かつお洒落で落ち着きもあって、パリよりファッションの街感ありました。
で、たどり着いた
フランダースの犬で有名なルーベンスの絵が展示されている教会です。
なかなか圧巻でした。
とうとう見たんだ。
これで死ねます。
ちなみに夕方にはこんな感じ
結構楽しみにしてたMode Museumは改装工事で閉まってて萎え。
メシは高めでこれも萎え。
現代美術館と、写真美術館にも行きましたが、この辺はあんまり分かりませんでした。
トイレのドアが一番おもろかったわ
その後は服見たり、宿に向かいつつ写真を撮りながらうろちょろして終了です。
薄暗い秋のヨーロッパってほんまに綺麗
相部屋の人とビール飲みながら話したりもしました。
言語習得の鍵はactingだそうですよ。
たとえ母語でも、気持ちを言葉にできているつもりで、それは話し方を演じてるだけなのかもね。
気持ちは言葉にならないですよね本当に。
2日目の内容は(2)に書きます。
ちなみに触れなかったですけど、有名らしいものを見た、写真撮った、で終わったら意外とすぐ忘れるし印象に残らないんで一夜漬けでもその地域の歴史をwikiとかで叩き込んどくとめちゃめちゃ楽しいです。
おやすみなさい。
僕も疲れたんだ。
なんだかとても眠いんだ。
フランダースの犬【最終回】後悔するハンスとコゼツの旦那 - YouTube
鎖国が足りない
ドイツに来て結構な時間が過ぎました。
ぼーっとしてたらすぐ終わってまうから明日からまた気合い入れてこ、みたいなノリで、久しぶりに書こうと思います。
あと黙って考え事ばかりしていると(それはそれで大事なことやけど)、色々良からぬ発想とか不安に火が付いて何するにもしんどいので、あえてやらなくてもいいブログを書くことで「活動」に慣れるっていう、なんか、そういうリハビリのつもりです。
漠然とした不安を抱えてる人は一緒にがんばろう。
それで、捻り出したアレが、鎖国が足りないって話です。
そのままなんですけど、個人規模でも、世界規模でもある側面で言えることかなと最近思うっていう話です。
まず世界規模、国家間におけるストレートな意味合いでの「鎖国」の話。
生活の中で、実は外から吸い取られてるものっていっぱいあると思います。
事実みんなTwitter,insta,Facebookで、個人情報から芸術から笑いから友情、愛情、思想、、、、何から何までほとんど全てを垂れ流してますけどそのコンテンツを作ったのは外です。
動画サイトはyoutube。
買い物はamazon。
携帯はiphone。
恋人や家族や親友とのやりとりはLINE。
appは全てapp storeに並んでて、利益はそのappを並べるシステムを作ったアメリカに自動的にいく。
システムに乗っかって何かをしてるに過ぎないと言うことです。
例えば中国はそういったサービスに徹底的に規制を設けて日本でよく使われるLINE的なサービスとしてWe chatと言うものを独自に発展させてその存在感を大きくしています。鎖国の産物。
正直いってこれはやり過ぎ、生き残るものに金が集まるのが今の経済なのは確かやし、鎖国って発想は極端です。
自分が充足感を得られる内側のコミュニティは外によって作られたシステムに担保されているって意識しててもいいと思います。ってだけの話でした。あとはガンバレ日本。
次、個人の鎖国の話。
これは人を国と例えた比喩です。
なので「なんで日本人は世界に出ないんだー」とかそんなんじゃないです。
そもそも、個人が個人の思う幸福を追求するのは自由です。
本当に重要なのは、個人が外に向かう姿勢を持つことではなく、外にはめっちゃでかい世界があるんだということにリアリティを感じることやと思っています。
その上でどうするかは選択ですから。
戻って、ここでの鎖国は人を国と例えた比喩。
あなたと私。あなたは外国、私は自国。あなたから私を閉ざすのが鎖国。
そう言う話がしたかったんです。
人との関わりは素敵です。それが生甲斐にすらなるくらいに。
でも他人とのやりとりは個人の行為と個人の行為のやりとりであることを忘れてはいけないし、個人としての魅力の練磨がないのはすなわち他人をおろそかにすることでもあると思うんです。
「プライド」なんかも他者との関わりにおける一種の障壁やと思います。
なんならその人に対する感情全てそうですね。
その人とのコミュニケーションにおける自分を正当化することを優先するあまり、その感情にとらわれて、自国感情を蝕んでいくのが健康的にすごく不衛生な気がします。
自分ひとりの世界において他者への感情にとらわれない自分の内側を整える作業が「鎖国」であり、そこを充実させることが円滑な開国、貿易への鍵でもあると思います。
クソわかりにくい例えやったな。おやすみ。