眼球越しの私の世カイ

自分越しの「世カイ」の話

久しぶりだー

自分の「悟りもどき」みたいなものを心のどこかで手放さずに、ひっくり返して「我」を手にしなあかんなと思います。

何言ってるか全くわからないですよね、わからんまま、これ以下を本文と思ってもらっていいです。

 

人には、考える人と考えない人がいるっぽいです。

こんなブログをするぐらいやから、俺は多分前者です。

話しながらも考えてるので、

「いやあやっぱそんなこと思ってないなあ」とか、「うわ今の撤回してえ」とか「ほんまは俺この事についてどうでもいいんかもしれん」とか、巡りすぎて自分の意見を持ってないかのようになる事も多々あります。

真面目な話や難しいテーマについてやと一層その感じ出がち。

俺の性格の話し出したらキリないけど、基本初見のモノには懐疑と否定を持って見てるので、我ながら厄介です。

 

そんな自分にとって考えることは生きてることそのものに近いところがあるので、

考えないってのは、流されたり、意志を奪われたり、とにかく、浅はかでしょうもない選択に見えます。

死んでんのと一緒やんって思ってしまいがちです。

 

じゃあ俺は考えない人を見下したり、不必要だと思ったりしてるかっていうとそんなことはないです。心から。

書き出しの前提をひっくり返しますけど、

「考える人と考えない人がいるっぽい」って、それほんまか?ってのが今のところの俺の主義です。

要するに、アホっていうのは考えてないんじゃなくて、言語化を諦めて風潮や同調正義に飲み込まれてるだけの被害者みたいなモノじゃないか、って思うんです。

 

だから個人に対する苛立ちとか反発は俺の中にあんまりなくて、そいつをそうさせてる、いわば「ノリ」にめっちゃ反発心を覚えています。

 

、、、っていうつもりです。

 

俺の snsには、人生で関わってきた大半の人間がいます、ざっくりとやけど。

アホなことしてるだけの友達もおるし、めっちゃ考えてる人もいるし、みんな好きなんです。(厳密には好きというか、関わりを諦めたくないみたいな、なんかもっと重要な言葉で表せない感覚)

そういう人たちに向けて、俺が思ってること、考えるっていう行為そのものを与えることを諦めたくないし、実は俺が持ってる完全にオリジナルな思想なんて存在しないと思ってます。

自分の思想は他人のものと。

 

ただ、この発想めっちゃ教祖みたいやなって思ったんですよね。

(あえて宗教を極端な捉え方で見た表現をしています。)

勧誘して、他人を救ってるつもりでいるのはその宗教の当事者だけやしありがた迷惑やん。

みたいなことを俺自身も俺の周りで起こそうとしてたんちゃうかなって、そんな自分を否定するターンに入りつつあります。

 

ぬるく優しく、多面的に物事を見れるのはいいんですけど、人は基本的に、時間をかけて離れていくものなんやなって思えてきました。

悲しいけど。

 

勘違いでも「自分にしかない感性」を信じて(これは本質的にはほんまに勘違いやと思いますが)引き合わない人間は適度に距離を離したり切ったりして、自分の中で他人の選別をした方が効率よく、自分の望むものは手に入る気がする、変に達観しても何もかっこよくない。

自分で勝手に他人を背負った気になって自分の足を引っ張るのはダサい。

 

って、わかっていながらも、「んーーーー。そんな傲慢に生きていいもんかなあ」って何となく思ってます。

 

 

まとめるとこんな感じですかね。

考えない奴はしょうもない

→でもそれはそうさせてる「何か」が悪い、俺は「考えない奴」じゃなくて「何か」に歯向かっていたい

→うさんくさい宗教みたい、救った気になってんのもダサい

 

ここでやっと何となく書き出しの

「悟りもどき」みたいなものを心のどこかで手放さずに、ひっくり返して「我」を手にしなあかん

っていう文のニュアンスを汲み取れると思います。

俺がありたい自分への憧れみたいなものです。

感情は拭い去れない。

ぼんやりしててこびりついてて、でも揺れてて、悲しさの正体を悲しさと知れた時には笑けてきたり、結構そんなもん。

俺たち自身も、人との関係性も、思考も、一生も、宇宙も、言ってしまえば時間というスタートラインとゴールテープで区切られた中の「振動」。

ムダかな全部。

揺れていくってわかっていれば、無駄とか割り切ってしまえば、抑揚も小さくなっていく。

そりゃ正解かはわからんけど、大人ってそういうことかも。

喜びも悲しみも振り幅が小さくなってきて、求めた「ラク」は「楽」では無かったりするんかも。

 

まあ大丈夫やろ。俺ら若いし。

んで、なんとなく自分の中でめちゃくちゃ落ち込んでた時期とかもあったけど、意外と周りにはバレてなかったりする。

悲しみも喜びも寂しさも、本気で隠すと案外隠しきれてしまう。

 

ただただ考えるって、それだけじゃ意味を成さんかもって、そいつ独特の言葉でそいつの寂しさを目にした時ハッとしている自分に気がついて思った。

俺はお前らのことを考えてるけど、お前らが俺のことを考えてるなんて、ちゃんと感じてなかった。

 

じゃあ逆の気持ちもコレか。

もっと簡単に、伝えていかないとダメか。

諦めて切り捨てる覚悟を持つか。

 

どちらも選ばずに、選ばないという選択に引っ付いてくる答えを選んでしまうのか。

 

止まない雨はないとか、空けない夜はないとか都合良いわ。

続く晴れもないし、暮れない昼はない。

 

とりあえずマイメンたちの明日が晴れたらいいな。

なんか好きになったわこの文章。

 

純粋じゃなくても良いよ。

純度100パーで今はこう感じれてるなって思えたことなんて一度もない。

ぼんやりしてこびりついてて、でも揺れてる。

 

大丈夫ですよ。

 

小学生と宇宙

なんかお久しぶりです。この感じで文章書くん久々です。

 

ふと思ったことなんですけど、義務教育って地味にすごいことしてなかった?って話。特に小学校。

 

毎朝7時とかに起きて、大した距離でもないのに集団で登校して、偉いなあ。

何がすごいって、せいぜい半日の間に国数英社理に加えて道徳学んだり芸術に触れたり身体動かしたりしてるんですよ。。。

やっぱり全ての知識の礎は義務教育に詰まってるような気がします。当たり前やねんけど、気付かんかった。

その頃の生活って、健康で文化的な最低限の生活の全てのエッセンスが凝縮して詰まってた気がします。

 

何かに決め込んで向き合って戦うのが、大人なんかもしれんし、そういうもんかなとも思うけど、実は若さを失ってるんじゃ無いかとも思う。

 

サカナクションが好きなんですけど、ボーカルの山口一郎って人が、「人には浴びる遊びをする人と探す遊びをする人がいて、今の人は浴びる遊びばかりしている。」って言ってまして、、

この言葉の真意は、わからないものからわかる要素を探してその喜びや意味を知るという事だと思います。

昔はインターネットがなかったから訳も分からないCDや本を買っては、いいとも思ってないのに、勿体無いからいいと思う部分を見つけ続けようとしていた、らしいです。

 

結局彼は、浴びる人たちが大多数の世界の中で、いかにマジョリティに溶け込みながらマイノリティにも刺さる音楽を作るかということをテーマにバンドをしているらしいんですけど。(カッコいい)

 

彼はある意味諦めているというか、受け入れているというか、そうして自分の立ち位置を見つけていますが、その話を聞いた上で俺自身は、自覚できる限りは探す遊びをしたいなって思いました。で、飛躍してる感じあるけど、そう思った時にすごいことしてたなってなったのが「小学校」。

毎日クソめんどくさいことに付き合わされる。ある時は文章に、ある時は数式に、ある時は図に、ある時は音楽、絵画、友達、説教、、、、、などなど、、、

 

若さって、概念で語ると、そういう教養に対する姿勢のことを言うのかなと思います。

だから自分の興味関心に突っ走るのは確かに専門性を高めてくれるかもしれない、お金になるかもしれない、でも人間としては?、俺は若さを保っていたいです。

 

戻りたいとは言わんけど。

 

昨日は常体、今日は形体、所によっては今日も常体。

こんな文章作文やったら真っ赤になって返ってきますね。

おぼえてる?

俺の好きな人曰く俺は、今を生きるリアリストらしい。

 

でもよくよく考えてみると、過去や、記憶や、思い出や、そういったものが大好きやったり大嫌いやったり、とにかく今じゃない所に心揺さぶられながら今に向き合ってる。

 

それ故に結構どうでもいいことの端々を覚えていて、他人と共有できないことに戸惑ったりすることもある。

 

もっと戸惑うことがある。

 

これまで自分の周りにいた人間と、ごくごく自然に、さりげなく、関わりがなくなって行くこと。

悲しさや切なさを微塵も残さずに。

 

みんなはおぼえてる?

おぼえてたらそれでいい。

この先ほとんど無いであろう何かのきっかけが、やっぱり無くて、一生をそのまま終えても、まぁいい。

 

この特性が、よかったことももちろんいっぱいある。

自分を許せること。自分を叱れること。

後悔や苛立ちは誰にでもつきまとうしあって然るべきやけど、おぼえていればいつでもその時の自分の気持ちに立てるし、許すことも叱ることも自分で決められる。

 

その時の自分のことは、責任も、見返りも、今の自分とイコールだということを実感できる。

 

これも今の自分が作り上げた過去への解釈かもしれんけど、少なくとも他人も観測しているような自分の行動に後悔はしてないし、その時の自分をわかってあげられる力はあると思う。

その時の責任も背負える。

 

最近、LINEの「最近更新されたプロフィール」をよく見る。

日々色んな人を思い出し続けてその人の今を想う。

そう思われる人間でありたいから、そう思える人間でいようと思ってる。

 

過去を今にし続けていたい。

でありながら狂おしいほど今に夢中。

 

空想への憧れは常に現実にある。

 

すべては今と、現実に、変換される。

 

それが俺にとって理想的な、「今を生きるリアリスト」。

なんてことはない

タイトル通り、なんてことはない。

今んとこなにも考えてません。

今も。

まだ。

 

うん結局なんも思いつきそうにない。

 

ほんまに書きたいことがないから別に口にしてもしなくてもいいようなどうでもいい独り言をぽつぽつと吐きますね。

 

サークルの友達が突然ラインをくれて嬉しかった。おすすめってYouTubeのリンクを貼ってくれて。

「まるでいつでも会えるみたいに気軽にラインしてたいね」って言ってくれた。

 

そういう関係にずっと憧れてた、過去に持っていたこともあったし、どこかでそういう関係やと思い続けてる人は数人いるけど、照れずに照れくさいことを言える彼は、濁して分かり合うことばっか求めてしまう俺に必要なタイプの人間やと思った。

絶対に結婚式に呼ぼうと思ったし、煙草が好きな彼には、俺が死んだら遺灰を吸ってほしいなって思った。

それはウソ。そんなシドヴィシャスとその取り巻きみたいな生き方は強要せんし、俺は死なん。

 

とりあえず、間違いなく今日この頃の力にはなってる。ピース。

 

弟が色々うまくやってるらしい。

彼は根っからアーティストやなぁと思う。

振り返れば、習い事をすれば続くのはいつも俺の方で、あいつは新しいことに手をつけては、すぐにやめていった。

時には彼から奪うように、器用さを見せつけるように、俺は彼の居場所を踏みにじってたこともあったようにすら思う。

 

俺の無慈悲な力すら振り切ってそこにいるということがもう最強を意味してる。

 

過去を思うと申し訳ないなと思うこともあるけど、強くなった彼を見るのは楽しい。

とはいえ、洗脳ともいえるほどの俺への強い憧れは今でもあるんやと思う。

俺もそういう自分を忘れたらその時こそ自分は死ぬんやと思ってる。

いつまでも憧れさせてやろ、って、かっこつけてるわけじゃなくて、かっこつけてる。

 

日本はえらく暑いらしい。

いうてもドイツも結構暑い。

みんなはテストが大変らしい。

俺は大して大変じゃないから無駄に今日は夜更かしして勉強でもしようかと思う。

他人がいると本当に頑張れる。

他人がいないとまるで頑張れない。

これって何一つかっこよくないから、一切誇ったことはないし誇ろうとも思わない。

 

嫉妬は欲望を明確化してくれるらしい。

嫉妬するものを自分は欲しがっていて、嫉妬する対象に自分はなりたいらしい。

 

日々はグダッと続く。

特にこれだけ暑いと余計にグダッとしてる気がする。

だからといってこうしようとかああしようとか、こう在れとか無いし、宣言もしない。

ありきたりな安い結論に逃げるにはまだ考えきれてない気がする。

「界隈」のキモさと窮屈さ

特定の集団をディスるわけじゃないけど界隈ってめっちゃ窮屈で不自由やと思います。

新しい人間関係を築けば必ず付いてくるもので、人との関わりの中で避けて通れないもの。

例えばビジネスをしますってなったらその界隈の人とのつながりが生まれるけどその分のしがらみや不自由さも生まれてくる。

バンドをしますってなったらある程度他のバンドマンに顔向けできる範疇での発言や活動が強いられる。

 

仕方ないとした上で思うんですけど、気持ち悪いです。

誰かにとって居心地がいいところは誰かにとって近寄り難いところです。

ビジネスマンがビジネスマンから、バンドマンがバンドマンから集めるいいねは羊同士の合体です。

それで世界は平和なんかもしれんけど、俺は、こいつ誰?みたいな人との繋がりを大事にしたい。し、いろんな界隈からこいつ誰?って思われてたい。

 

まぁ、どの界隈からも孤立して繋がりもクソもない本物のボッチなんですけど、1人で感じる孤独は結構耐えれるもんです。

集団の中で感じる孤独はめちゃくちゃ辛いです。

どこかに属していながらも、一瞬フワッと自分が浮く感覚ほど胃が縮こまることないです。

 

とはいえこんなこと言ってると人との繋がりを否定するんかって思われそうやけど、別にそういうことじゃなくて、自分が確固たる自分を持つ場はあるべきやってことです。

俺が俺の持つ各界隈との馴れ合いをする事で、それを尻目に離れて行く人がいるなら、最初から誰かを意識する事なく言葉を発したいし自分を晒したい。

めっちゃ難しいんやけど。

 

その上で俺を見てくれる人は実はいっぱいいるから、なんか、優しいなって思います。

 

それぞれを忘れることはないし、関わってきたコミュニティ全部結構好きやからこそ、「浮いてんなぁコイツ笑」みたいに思われてることも良しとして、自分を晒していこうと思ってます。

 

それがこの変なブログやったりツイッターやったり、、

俺が世に出てる部分、大体そうかも。

 

サークルの為のつぶやき、恋人の為のつぶやき、先輩や後輩の為、友達の為、別にいいよ、俺もたまにするし。

ただ、好きやからこそどこから見ても不自然な剥き出しの俺が公にいることはもっと大事な気がする。

投げキッスをあげるよ

twitterとかinstaの存在意義って何なんやろって度々なってました。

かつての自分の捉え方としては、情報収集の場、と、承認欲の解消、やと思ってました。

 

で、一定期間やめてみて、どっちの役割も大して機能してないなって思いました。

情報は腐るほど流れてるけど、受動的に手にする情報はバズってるものが多いからみんなの目にすでに触れていて新鮮味がありません。何なら、多くの人が正しいとか素晴らしいと思ったものが拡散される世界やから個性に大差がなくなって意見が腐ってんちゃうの?とすら思いますね。フリーメイソンの陰謀や〜〜〜みたいな展開ですね。

 

わかる人にはわかるみたいな結局何がいいんかわからん良さ(ややこしい)ってどんどん埋もれて行くんちゃうかなあ。

 

淘汰されて行く素晴らしい生き方、おもんないなあ。

 

で承認欲については、無理やろ、こんなツールで承認欲満たすなんて。ってなりつつあります。

これまで自分の化けの皮を引っぺがすつもりでいろんな角度から自分を晒してきたつもりではいたけど、無理や。

もがくほどに滑稽に空回りしてる哀れなナルシストが出来上がる。

結局人は人のことを付加価値的な部分で興味を持って接することを決めるわけやから。

ましてや何千人の呟きの中で異彩を放つには、「これ、本音なんでみてください」なんて何の効力もないな、って思いましたー。極端に自分の付加価値を誇示しないと。

そうでもないのに興味持ってくれる人は天使か何かかなって思います。

センスありますね。🐭

 

よく人に興味なさそうって言われるんやけど、何でやろって思ったら自分に興味を集めたすぎるからなんかなって思って。

 

なので、一回、ある種自分を諦めて、みんなを真剣にみてみようと思います。

 

滑稽に空回りしたことがある哀れなナルシストなら、自分を犠牲にすりゃ滑稽なみんなにも投げキッスがあげられるんじゃないかなって。ことで。

 

まあ自分を諦めたわけでもないんやけど。

 

散々毒を溜め込んで、発散して、諦めて、また溜め込んで、みたいなの疲れたんで。

博愛や。

 

きも。宗教みたい。

とにかく、神は、横田は、あなたをみていますよ。

 

 

 

ほんまにきもい。笑

人を見るためのツールってことにやっと気づいたってだけの話なんですけどね。