ハーフが語るハーフ会のきしょさ
自分の生き方や考え方、あるいは立場や自分そのものについて、否定や批判をされることは誰しもがあることでしょう。
ただ、人間って、気づかんうちに時を経てそっち側に回りがちやと思います。
辛さを乗り越えたら楽なポイントに来て、次はそこを守るのに必死になるから、かつて自分を苦しめていた根源になってしまう。
ほんで俺は個人的に、そういう風景に気づいてしまうとめちゃくちゃ腹が立ちます。
腹がたつので、適当に具体例を挙げて叩きます。
一番声を大にして言いたいのは、
「ハーフ会」って、なんやねんそれ。きっしょ。
もはやこれを言いたかっただけかもしれん。
自分がいわゆるハーフやからこそ、全人類を代表して言います。きしょい。
とはいえ、特に日本においてハーフや外国籍を持つ人への風当たりというか、疎外感は感じるとこもあります、さみしい気持ちはわからんでもない。
前の記事でもほんの少しですが言及しています。
しかし!きしょい!っていうのが今回のスタンスやから。
高校卒業ぐらいの時期からかな、ハーフや日本人以外の人ばかり集めて「うちらグローバルっしょ」的な風ふかしてる連中を見かけるようになった時は吐き気がしました。
初めて虫唾が走った日。ですわ。
引用元↓
しかもタチ悪いんが日本にいながらにして、純粋な日本人がそのコミュニティにおらんゆえに日本人には批判しづらいってところ。
だからこそ当事者の俺がいうけど、あんなんクソ。
疎外感を感じて育ってきたんか知らんけど、世間を疎外しようとすなよ。
世間が目指すグローバルが、単に本来のglobalという英単語の「世界的な」とか「包括的な」みたいな意味であるんなら、目指すべきものを変えるべきやと思います。
「多様性」。そもそも個人は全て違う。個人の集まりがあることがすでにグローバル。
そこにいるのがたまたま日本人だらけでも、ドイツ人だらけでも、黒人だらけでも、女だらけでも、障害者だらけでも、グローバル。
異なった人種や性別を等しくキャストせんと叩かれるような映画、何それ。
だっさ。差別なんてほっとけ。それがほんまの意味での無差別やろ。
ちょっと持論の展開が過ぎました。
(またこういう「やりすぎ」で周りからの俺の見え方を狭めてしまう。。
我ながらセルフプロデュース力がないよなぁ。)
うん、でもそう思う。
差別で思い出したんですけど、今や「ハーフ」って言葉も差別用語らしいです。
「俺らは半分じゃねえよ。ダブルだよ。」ってことみたいやけど、俺ら倍にならん?って感じするから個人的には「ハーフandハーフ」がええかなあ。ピザの。
まあ正直どうでもいいから「いわゆるハーフ」としてますけど。
それから、最後に自分自身にも釘を刺しておきます。
こうして何かを批判するということは、今の自分がいつかの自分にとっての敵になることかもしれない。
「自分で決めること」はほんまに大事やけど、感情と理性のバランスを忘れて、後悔するような選択を取ってしまうのは愚かでしかない。
にしても言い過ぎた感はあるし、添削はしてないし、なんか微妙なんでこの記事に関しては公開はするけどツイートはしません。
見ているあなたはすごいです。ありがとうございます。
なお、ネットに載せている以上記事のシェアは大歓迎なんでそこは気にしないでください。
ま、ないと思うけど。
おやすみい。
幸福論
今回俺は超頑張った
先に言います。
訳の分からん話をします。
自分でも自分についていけるかわからん。
やってみる。
導入
ある友人がいまして、彼とはめっちゃいろんな話をします。
その時々によって哲学的なテーマみたいなのをしっかり持って考えながら生きてるような人で、俺に意見を求めてくれるし関心してくれるし、存在そのものを愛してくれる、人です。
これだけピュアに俺の意見に耳を傾けて反応してくれるのは、ダンと彼がダントツです。
普通はプライドが邪魔して素直になれへんもんですよね、俺もです。
あーまあいいや、そいつとの関係もいずれ書きます。多分。
そんな彼と、結構長い期間、会うたびに「幸せとは」みたいな話をしてたんです。
今回はそこで自分が考えてきたことと、その延長線上に思ったことをまとめてみます。
すでにまとまりないブログやけど堪忍な。
幸福を場合分け
まず、幸福を感じる場合を分けてみる
(幸福とは何かを考えるにあたっての前提条件)
1.唐突に、ふと訪れるもの
例えば、風呂きもちぇえ、、みたいな、いわゆる棚ぼた
2.現状からのアガッてる感、キテる感
例えば、目標を設定し、そこに近づいている達成感や緊張感様々なものをトータルで加味し、感じる高揚感。目標設定なくてもいえるかな。
(過去の状態から上がってる時の上り方。グラフで言うと傾き)
分けたけど結局一緒クサイ
実は1個目も2個目も、期間や程度の違いしかなくて本質的には同じものかなと思います。
ふと訪れた幸福はすぐ忘れるし。
唐突なものか持続的なものかの違いかな。
とりあえずキーワードは、傾き、とかキテる感ですね。
俺らは「夢を持って、達成する」とかを例にすることが多かったので、無理矢理分けた中で言うと、特に2つ目を中心において考えていました。
本題:幸福とは何か
結論から言うと彼の答えは「幸福は本人が自分で決めるもの」で、俺は「本質的には存在しないもの」やったと思います。
これ、問いに対して答えるポイントがずれてるんで、違うこと言ってるんですけど似たような意味です。
説明します。
例えば、
この世界には金持ちと貧乏人のような理不尽な格差があります。
しかし金持ちにとっては金を持つことは幸せではありません、なぜなら金を持ってるから。
貧乏人は金を持ってないから金を持つことを幸せと思えます。
立場、心理状態、思考、年齢、性別、、その他様々な要素を人は持っており一つとして同じものはありません。
各々がその全ての要素を踏まえて「幸福とは何か」と言うことを想います。
とても簡単に言うと、幸せの形は人の数だけあるってことです。
あっっっさ笑
まぁでも、それが友人が言った「幸福は本人が自分で決めるもの」って言う答えでもあり、「本質的には存在しないもの」って言う俺の答えでもあります。(ここで言う「本質的」は、「真理」や「事実」のような、揺るぎない確定要素みたいな意味です)
幸福は無知の上で成り立っている
でもここでちょっと意見が分かれることがありまして、、
よく聞く話なんですけど、例えばある独身のおばあちゃんが詐欺にあって、高額でなんの変哲も無い布団を買いました。
本人はそれを本当に価値があると信じており、そこから実際に寝つきも良くなりました。
さあこのおばあちゃんは幸せですか。
的な話です。
あと有名なんで言うと、幼い兄弟がカードゲームのカードを交換する話とか。(兄が弟に雑魚カード10枚あげてレアカード1枚もらう、弟はカードが増えたことに大歓喜)
どう思います?
ちなみに友人はそれでも幸せは自分がどう感じるかだから例の中の彼らは幸せだと言っていました。
先に言うと俺の答えは「不幸だ」なんですけど、それはひとまず置いておいて、ここで伝えたかったのは、幸福は、知らないということの上で成り立っているということです。
無知は罪
無知は罪という言葉があります。
ソクラテスが意図していたものと俺の解釈は若干違うかもしれませんが、俺自身も、無知(無邪気)というのはホンマに罪やなって思わされることがめっちゃあります。
例えば、進路選択。
注:この例は不快におもわれる方がいるかもしれません、閲覧注意。
日本の教育では、進路選択っていうのは結構早い段階から決断を迫られます。
いざ高校受験。
なんてゆうても決める本人らは所詮ガキです。
知らんことだらけやのに、いっちょまえに反抗はする。
親の反対を押し切って専門学校に行きました
→入ってから普通校に行った友達の話を聞き自分の中で世界が広がったけどもう遅い。とか。
普通科入りたかったけど学力が足りんかった、どうしてもその学校行きたいからレベル下げてでも学科変えて入学
→結果的にその先の選択肢を狭めていた。
とか。
当の本人らからしたら自分の中で落とし所つけてそれはそれで幸せな今を生きていると思いますが、最初から知っていてなお本当に同じ選択をしたのか。
そんな道を選んでしまった人たちを馬鹿にしたいわけじゃありません。
俺自身も進路に限らず、無知故に可能性を狭めてきてしまったことは何ンンンン度もありますし、そんな自分の甘さを噛み締めることもあります。
無知は罪です。
結果論やんってのも一つの意見です。
が、そうかな。
知ることでこれまでの幸福がひっくり返るような幸福なら、知らないことは罪でしょう。
、ていうのも一つの意見でっせ。
すると生まれる、「幸福のパラドックス」
え、無知故に幸福になり得るのに、無知故に不幸でもある??てことは、
無知∴幸福
無知∴不幸
幸福=不幸?!??!
幸福のパラドックスやぁ👐
これバイト中に思いついたワードです。
神様仏様お客様、大変申し訳ございませんでした。どうぞまたおこしくださいませ。
いよいよわけわからないですね。
これは式としてあってんのかもよくわからんけどその辺は理系ボーイズの力添えに期待して。
まとめると
幸せは知らないことがあるからこそ成り立っている。しかし無知であるということは結果的に自分に不幸をもたらす要因にもなり得る、罪である。
まとめると暴論感あるのは甘いからなんでしょうね考え方が。
突き詰めねば。
矛盾の中で、じゃあどうするか
じゃあどないしまんねんって話なりますよね。
そらそーです。
答えとしては、「知らないことを追求し続ける」です。
知らないことがあるから幸せでいれるってことは言いました。
てことは、当分幸せになれる可能性は潰えません。
俺らがなんで生きてるか、とか、宇宙ってなんなん、とか、そんなんしばらくはわかるはずもなさそうやん。やし大丈夫。
でも、だからといって知らないことを知らないままにするのは人類という生命に託された何かを放棄してるような気もします。
(だんだんオカルト感増してきますねこういう話すると。)
知的好奇心を持てるのは俺ら人間だけ!
不幸を掘り下げることになるかもしれんけど、知らん幸せを掘り当てる可能性にもなるんやから、知らんことをどんどん求めて生きましょう。
そうやって落とし所つけるしか、うまく生きる方法が今んとこ見つからん。
さて、分からんとこだらけ腑におちんとこだらけでしょうけど、ここまでたどり着いていただけたことに感謝します。
ありがとうございました。
どうぞまたおこしくださいませ。
今日はいかにもヨーロッパなとこに行ってきたよ。
野田洋次郎をフォローした上ミュートしてる話
俺は野田洋次郎の曲が好きです。
(以下、アメリカンな感じを出すためにNYと表記)
RADはもちろん好きやけどillionもめっちゃ聞くし、プロデュースした曲も聞く。
どういうとこが好きかは長くなるんでまたの機会に。
でも。
NY本人が好きかって聞かれるとむしろ苦手かもしれないです。
なんかSNS上でのはしゃぎ方とか言葉遣いとかその他諸々が俺の苦手なそれ。
晒してる部分が、じゃなくて、晒し方が。
ちょっと逸れますが、いわゆる信者はもっと苦手です。
NYがインスタで東北の一本松?を投稿し「合掌」的な言葉を添えれば、
そのコメント欄は便乗の嵐(みんながみんなじゃないよ)
○○。(←汚い言葉)
自分で決めろって散々いってきましたが、祈り方すら自分で決められない奴ははっきりいってクズです。
ちゃんと逸れたな。
で、そういうSNS上で自分を晒す行為ってすごく簡単やけど考えるべき行為やと思うんです。
得体の知れない奴がかっこいい音楽を作ってる。→カッコいい
自分と意見の違うツイ廃が音楽を作ってる→カッコよかろうが聞く気にもならない
ありえないことじゃないと思います。
何もしないってことは、何かした時の評価をより真っ当に受ける条件になり得ます。
でもこういう風にも思う。
「なんで、何かを口にした奴が、行動に移した奴が白い目で見られて、何もしてない奴が得すんねん。」
というわけで、俺もまだ答えは持ってない。
思ったことは発信したいけど、それ故にヘタな発言一つでみんなに俺のイメージを植え付けてしまって取り返しのつかないことをしてる気もする。
影響力、発言力、信用、それらを得ているようで失っているような気もする。
好きやと思ってフォローしたバンドのボーカルが自撮り魔やったら俺だってガッカリする。
太宰治がメンヘラツイートしまくってたら後世に渡って文豪とされてたんかな。
そんなわけで、NYに関してはフォローした上でミュートしてます。
俺にとってそういう人なんです。
そんなこと言うてる俺自身は、答えが持てん間は晒す方を取ります。
何も言わずに悩むよりぐちぐち言いながら悩んでみよかなって感じ。
ネコ!
俺が嫌いな人は世界で1人[下書きシリーズ]
こんちは。クヮイです。
今母の実家に来てて、まぁものすごい田舎なんですけど、こっから日本まで旅立って夫を見つけて、一生を共にする決心をして今日本で英語教室を営んでいると思うと、行動力やらなんやら、本当に母は凄いなと思います。
引用:わいのインスタストーリー(フォローして)
まぁ今回は母を褒める回じゃなくて、俺を褒める回です。
ツイッターの話。
日頃から思ってはいるけど尖りすぎてることとか、なんか恥ずいことって、呟かずに下書きにとっておいてるんですけど、忘れた頃に眺めては自分で共感してるんです。
アホですねやってること。
まぁとはいえ自分が思っていることに違いはないですし、これから[下書きシリーズ]としてちょいちょい小出しにしていこうと思います。
で記念すべき第一回目はこちらをピックアップ。
「好きなもの」についてです。
語弊があってはいけないのでちゃんとフォローしておくと、俺が公式にちゃんと嫌いなのは全人類の中で坂上忍だけです。
それだけは言わせて。
他人に対して、バカやなとか浅いなとか思ってしまうことは正直あります。
が、気持ちはわかります。
んで、その上でほんまの深層心理においてのその人はめっちゃ賢いんやって思うようにしてます。これもまたブログのネタにしたいな。
てなわけで、
流行に流されてしまう人の気持ちも、通ぶってしまう人の気持ちも、なんとなくわかるので、嫌いってのはちょっと言い過ぎです。
気持ち悪いけど。
過去に偏見:漫画村叩く奴は国際交流サークルにいそう。 - 眼球越しの私の世カイこちらの記事で、
正義か悪かは自分で決めろって言ったと思うんですけど、基本的には同じことを言いたくて、
好きなものにおいても、好きか嫌いかは自分で決めろよ!ってのが基本的な俺のスタンスです。
しかしややこしいのがここから。
わかりやすいのが音楽なので音楽で例えますが、
好きか嫌いかを自分で決められない世間↓
「菅田将暉好きやから菅田将暉が歌ってた曲好きぃ。菅田将暉が歌ってた曲好きやから米津玄師好きぃ。」
好きを自分のものにしたがる人↓
米津さんがボカロPとして活動しだした当初「ハチって知ってる?めっちゃええで。聞いてみ。」
米津さんが米津玄師名義でオリコンとか乗り出した最近
「○○(マイナーインディーズバンド)って知ってる?めっちゃええで。聞いてみ。」
一方はわかりやすく腹立ったと思いますがもう一方はわかりにくかったかもしれません。
すみません、あんま米津さん好きじゃないから例えとして出すにはふさわしくなかったかも。
後者は「知ってる?聞いてみ。」って言ってマウント取ることが目的になってるんです。
それってめっちゃきしょいことやと思います。
知らん間にそういう人の脳内では
みんなが知ってる=価値が腐ってきた
ってなってます。
結局両者に共通しているのは「好き」ってことからかけ離れているということです。
評価されているものを好きになることも、アンテナを張って自ら好きなものを見つけ出すことも、否定したいわけじゃありません。
オリコンや知名度以上に自分の感性で好きと言える人が増えたらいいなってそれだけのことです。
その上で、皆さんの好きなものの話を誰かに聞かせてあげてください。
てか俺に聞かせてください。
本気で何かを好きと言える人の好きが向いてるものにめっちゃ興味あります。
あ、んで、
「自分の感性」とやらも小さい頃から無意識に耳にしていたり目にしていたものに依るんじゃね?とかそんな俺の意見ぶっ壊すようなこと言わんといてや。頼むで。
ほなねー。
代弁
僕には何もない
飛び抜けた強さもない
コミュニケーション能力もない
芸術的な才が無い
発想力がない
勤勉さがない
何より何かになる意志がない
僕は考えることしかできない
何もないのに何かをだれかへ口にすることしかできない
そうして何もない僕を、せめることしかできない
それを愛してくれるひとはいるけど
僕は僕を愛し切れない
自分の言葉を理解してはいるけど
僕自身で納得し切れない
綺麗な終わりはない
僕には何もない
サークルなんてG行為
サークルのことについて書こうとしてるんですが、まとまらん!
ほんまに。4回くらいは書き直した。それは盛った。
というのも、俺がサークルというものに所属してなかったら、やっぱり正直見下してたやろなーと思うからです。
俺が所属してる(た?)サークルは、いわゆる軽音サークルです。
自分たちで作ったわけでもない曲をコピーしては、ほぼサークル員しかみていない前で演奏して、見て、聞いて、はしゃぐ。主にはそんな感じやと思います。
お前らの存在意義って何やねんって言われたらむずい。
ただ、大学っていうでっかいくくりの中でサークルに所属するということは、世界の縮図に身を置くことだと思っていて、言うなれば、宇宙から見て地球の、人類の存在意義って何?って聞かれているようなもんです。
ごめんなさいかっこつけました。
サークルなんてオナニーですね。どう考えてもそうです。
自分たちが楽しいだけ、気持ちいいだけ、外から見れば迷惑さえかけんかったらお好きにどうぞって、そういうコミュニティだと思います。
コピーバンドやから、どれだけ頑張っても本物にはなり得ない。劣化版。
ただ、捨てたものじゃないよってことを少しでも伝えたい。
それから、どんなすげーミュージシャンのどんなすげーパフォーマンスも、自分自身で自分の心を掴んだ瞬間には敵わない。
自分がミュージシャンでもないくせに最近よく思うことなんですが、「何でこの人らはライブするんやろ」ってことです。
本気でミュージシャンやってたら熱量も、言いたいことも、音源に全力でぶつけているはずですよね。
その上で新鮮味のある今の思いをぶつけるためにライブやるんだというならわかりますけど、器用に音源と同じことをライブでもしてる人たちは少なくないし。
もっと言えばその時々じゃなくて「この人らのライブといえば」みたいな雰囲気が毎回できてることもあるし。
ライブハウスやらフェス会場の空気を吸いに行ってるならわかるけど、これ、演者は何を価値として与えていて、観客は何を価値として受け取っているのかなって、後ろの方で冷静に思ったりもします。
その点サークルは頭は悪い感じやけどお互いにライブをやる理由も見る理由も明確で、ただただ一緒に楽しい空間をシェアしたいって感じで、カッコよくすら思える時があるんです。
自分の力で自分の心を動かした時、めちゃくちゃ感動しまっせ。
、
、
、
ああ〜〜。。。もうなんか浅いし。だる。
まあいいや。
ま、でも、オナニーでも何でもいいんですよ!(暴論)
前の記事でも言ってますけど、大事なのは自分自身のごく浅いところに転がってる
「実感」です。
実は未来は決まっていて選択しているつもりの行動一つも運命に逆らえてないだとか、この世界は仮想現実のごく一部だとか、うんたらかんたら、、、そんなことが仮に正しかろうと、真相がどうこうよりも実感が大事でしょ。
「選択次第で未来はどうにでもなる。」その「感じ」こそ本物やと思います。
要するに、正直、実感として俺にとってこの世界には70億人も人間はいないし、サークルっていう一見しょうもないコミュニティに飛び込んだことでそこは俺の世界になった。
俺にはその中で求めてくれる人がいて、存在意義があって、時にはステージから世界に呼びかけることもできる。
そんな実感を与えてくれるんです。
こんな俺は「ちっちゃいとこで満足してるダサいガキ」
ま、それは俺以外から見てそうなのであって真理なんやと思います。
だがそれでいい!
それが俺の「実感」やからです。とんがりのみんなありがとう。
結局サークルの良さについてはあんま伝えられんかった気がしますねー。
また書き直したいとこやけどこれはこれでいいや。こういうこともある。
俺の眼球越しの世カイの話なんで。
俺の世界は俺のもの、お前の世界も俺のもの
Hallo Kai Desu.
ドイツに来て丁度1週間が過ぎました。
ブログ始めたんも1週間前か、色々あったなーって感じです。
このタイミングでブログ名変えてみました。
題して「眼球越しの私の世カイ」
俺にしかない偏見や穿った思考にまみれた、俺越しの「世カイ」の話ですよーって意味でつけました。
まあ某ハッシュタグを小馬鹿にしてることは言うまでもないですけど。
てかもはや馬鹿にする勢力が強くなり過ぎてて最近見ないですね「ファインダー越しの私の世界」。
強い勢力に加担すんのダサいからやめよっかな、てかそんな悪くもないように思えて来たわこのハッシュタグ。
あんま萎縮しないでくださいよ、ファインダー越しのあなた さん。
とかいう心の中の押し問答もありつつ。
この「世カイ」の神は俺なんです。
で、俺が認知する世界はもうすでに「世カイ」なので、「世界=世カイ」すなわち「世界の神も俺」です。
だからなんやねんって話やけど、俺はそう思って生きてます。
世界を作ってるのは自分やと。
にしてはそこまで俺に優しくもないんですよ世界って。
黙ってみんな俺を称えてくれよって感じですけどそうもいかないようにプログラムされてるのはなんかしらその意味があるんでしょう。
意味で思い出した話。あ、こっから逸れます。
よく「生きてる意味なんか結局ない」って言う人いますけど、俺の考えでは生きてる意味は絶対あります。
「生きてても無駄と割り切れば本気で楽しめる」とか言うつもりなんですかね、無駄ってほんまに分かりきってたら俺なら生きる気なくしますけどね。
割り切れてないからその都度幸せなんですよ。
割り切れてないから「生きてても無駄」なんて割り切ったフリできるんですよ。
何を隠そう自分自身がそう思ってた(つもりの)時期が長かったので言えることなんですけどね。
ファッション悟りはやめましょう。
結局大事なのは自分のごく浅いところに転がってる実感です。
俺らは今が大事やから卍
ツレが居ればええから卍
それ多分正解です。
なんか見下しててすみませんでした。
でも俺はちゃんと考えに考えてそう思った。
深過ぎて浅いっていう。
生きてる意味の話については一応ちゃんと根拠もあるんですけど今日は語りすぎんように置いときますわ。
忘れたらごめんなさい。
おやすみなさい。