その頑張りファッションやろ[下書きシリーズ]
長い時間空きましたが、下書きシリーズ第二弾です。
前回の貼っときますんで、よかったら。
じゃ、早速今回取り上げる下書きです。
確かこれは、サークルに、テスト勉強に、バイトに、、って感じで色々追われて、よし頑張らななって奮起してた時に頭の片隅にあったことを書き留めたものです。
なんでこんなこと思ったんかはもちろん理由があって、ざっくりいうとバンドのライブのMCです。
そんな頻繁にではないですけど高校生の頃からちょくちょくライブハウスでいろんなバンドのライブを見て、MC聴く機会は割とあったんですけど、かっこいいバンドのMCって大体めっちゃ感動するんです。
信念がこもってて、熱を帯びてて、客の熱い視線が注がれてて。
でも時々出番を終えたそのMCの主が喫煙スペースでヘラヘラしてんのとか見かけるんですよ。
まあそこまではどうでもいいけど、『あんなこと本気で言ってないし、真に受けんといてや』みたいな保身が透けて見えるようなうっすい笑い声が聞こえてくるんです。
全員がそんなんじゃもちろんないしタバコ吸う人間を悪いとは全く思いません。
そういうのを見ると自分が悔しくなるんです。
『信念がこもってて、熱を帯びてて、客の熱い視線が注がれてて。』
なんて思ってしまった自分が。
これはこれで甘い発想ですけど、
他人への影響力があって、あんな貴重な場に立ててそんな感じなんかよ、俺と代われ。って思いました。
でもいざ、
大学のサークルで、ボーカルをすることになって、ほんまに熱い気持ちを言葉にしようと思った時、かつてのあのバンドのボーカルみたいに上手く言葉にできんくて、めっちゃ悔しかったです。
同時に「あ、こんなもんなんかもな」とも思いました。
熱さの奥底に冷めた目で演じてる自分がいて、それがみんな上手くて。
見てる側は感動している自分を演じていて。
どんだけ心の奥底に思いがあって熱くなっててもえ?ってなることをすればえ?って反応が返ってくるし、、
なんで伝わらんのやろって、これは現在進行形で思うことです。
が、見せ方が下手な俺に問題があるってことはわかってます。
結局、場慣れさえすれば感動を作ることはできてしまいます。
あの時みたあのボーカルは人様の真似事でもなく、サークルに用意されたステージでもない所に偽物の言葉で、のし上がってました。すごい。
人は偽物も本物も関係なく感動するものに感動してただけでした。
見る側からすれば「頑張ってる」のも「頑張ってるっぽい」のも大差ないこと。
だから、天知る、地知る、我知る、お味噌汁、みたいな言葉ありますけど、頑張った頑張ってないなんて自分の納得が一番大事やし、
これだけ時間かけたからとかこれだけ苦労したからとかそんなこと評価に値しないんです。
そこを評価してやれんのは自分だけやから。
だから自分に向けて本物の努力をして、世間に向けてそれをうまく見せる。
そうするしかファッション努力家に勝てる自分は作れんと思ったって話でした。
いつか迫られる選択
前回に引き続き、エヴァに絡めて話します。
エヴァンゲリオンと言うアニメを通してすげーなーって感心させられる部分はいっぱいありますが、ストーリー面(設定?台本?)でいうと、やっぱり人類補完計画っていう設定の発想は度肝抜かれました。
最初にまともにエヴァを見たのは小学生のときかな?
ただのかっこいいロボットアニメっていう印象でした。
あんま細かいとこの意味はわからんかったけど、意味わからんなりに「使徒っていう敵が来る、エヴァっていうロボットに乗って戦って倒す」っていうシンプルな対立構造を楽しんでたと思います。
そこから時は流れ、、、
思春期を経て、様々な悩みや葛藤を経て、経ては経て、経続けた結果、21になりました。私も、経たなあ〜。
そうして色々経た自分が久しぶりにエヴァに帰ってきたらやっと意味がわかった部分とか、腑に落ちた部分がかなり増えていて感動したんです。
自分の中のどういう知識や考えが、人類補完計画に共鳴したのか、書きますね。
今回は、いつもの小っ恥ずかしい思想とかじゃなくてただの面白い話にしたいなあ。
じゃあまず人類補完計画を説明する前に、生物について。
生物って色々いますよね。
ヒト、犬、猫、鳥、虫、魚、、、、、、もっと細かく分類できるけど。
それらのすべての「種」には決まった2通りの終わりのシナリオ(運命)があります。
つまり人間にもいずれ訪れるものです。
それは、進化か絶滅。
要するに今存在する全ての「種」は進化を選び形を変えて生きていられているわけですね。すごーい。
で、どうやらその運命の選択は、大体ですが、20万年に一度のペースで迫られるらしいです。(詳しいこと調べればいくらでも揚げ足取れるほどざっくりした情報)
20万年のスパンで一つの種は滅びるか進化していく、と。
恐竜とかもそうなんかな、多分。
ほんで、どうやら我々の種であるホモ・サピエンスは種が確立してから約20万年が経とうとしてるみたいです。
ぼちぼち20万歳の誕生日なんです。
我々もだいぶ経ましたね〜。
この長沼毅さんって人の話の受け売りです。
文系脳でも理解しやすくて簡単にロマンを感じられる話を展開してくれるんで結構おもろいです。
この話を始めて聞いた時、やべえって素直にそう思いました。
で、この先生が言ってるように、俺らは考えて選べる唯一の種なんやから考えてみよう、と。
結果俺がたどり着いたのは、「自分たちの力で進化するしかない」
でした。
自然が俺たちを作り出し、知恵を与えた。
なら、俺たちの起こす行動は全て自然の一部です。
人為=自然の一部
です!環境破壊は、自然が生み出したものです。
とすれば、人間の持てる技術と知恵で自分たち自身を進化に導くのは何もおかしくないんじゃないかと、そう思いました。
ぶっちゃけ「医療」なんてほぼその領域です。
じゃあどんな存在を目指すのか。
どうせならもう争わずに分かり合える存在がいいよなー。
理性と本能の同居とか、矛盾を抱えて生きるとか、嫌いは好きの裏返しとか、そういうめんどくさい今の自分たちを、どうすれば争わずにより優れた種にできるのか。。
一つは人工知能を取り込むことです。
さあどんどん胡散臭くなってきたよ。
でも冷静になって考えて見たら、人間のめんどくささとか非合理性ってやばない?
最終的には命を奪う能力をチラつかせてお互いに牽制しあってバランスをとることでしか共存できない。
無能やん。
全然知的じゃない生命体です。
その点人工知能はどうかというと、ま、よくはわからんのですけど、
どっかの時点で人間の知能を越すと言われています。(超知能、知能爆発、シンギュラリティ、、、、、ってやつ?)
よくわからんなりに、シンギュラリティが起こるってことはこれまでの産業革命とは比にならんほど強大な力を前にするってことやと思うし、それらとの共存、もっというと融合、進化があってもいいんちゃうかなーって思うわけです。
でも実感が湧かんしな、所詮SFの世界の話なんかなー
なんて思っていた自分にしっくりきたのがエヴァンゲリオンの人類補完計画です。
人類補完計画とは
これ以下はすべて俺の解釈です。ガチ勢の方、いじめないでください。
エヴァの世界では、人間は皆ATフィールドと呼ばれる他人と自分を隔てる心の壁を有しており、それによって人としての体をなしています。
ATフィールドが崩れると(死ぬと)人はLCLっていう汁(色々あって生命がなかった頃の地球の海に充満していた生命の源のスープ)と魂に分離します。
で、俺の解釈では、人類補完計画っていうのは、
全人類をまずぶっ壊してそれらのLCLから誕生した新たな器に、分離したすべての魂を集約して一つの新たな生物として進化するってことやと思います。
だからそこには自分も他人もなくて、自分の価値ガーとかあいつの心の壁ガーとかで悩む必要もないんです。
全人類のお互いの魂がお互いの魂を「補完」し合ってるから。
俺が想像してた、人為的な進化の一つのモデルなんです。
しかも他人と本人っていう概念がなくなることで感情的な部分でのあり方も大きく変わるっていうとこがミソですね。
それでも「あなたがいて僕がいて」っていう世界を選ぶのか、みたいなとこで作品の深みを助けてます。
すげーなあ。
この、人類補完計画の前提になる、「人の体は魂の器説」みたいなんも、死んだらどこいくんやろうってのを考えまくって思ってた一つの答えに近かったからめっちゃ収まり良く、スッキリする。
グダグダしてきましたね。
こんなぶっ飛んだ話じゃなくてもいつか迫られることに変わりはないと思いますし、解決しなあかん問題はなんの悪気もなく生きてるつもりでも山積みです。
何より、やっぱ知的好奇心をくすぐられんのってワクワクしません?
っていうそれだけのことです。そう。
「おもろいだけ」ってことへの憧れが強い。
エヴァについては、色々言われてるラストシーンについての解釈とか、結局何が伝えたいんやろうとか語りたいことは後を尽きんのやけど、ひとまずは今回のこれで終わります。
あ、質問箱やります。
ドイツでの生活のこと、しょうもないこと、しょうもなくないこと、などの質問。
質問だけじゃなくて誹謗中傷、ブログの感想、悩み相談、、なんでもお待ちしてます。
普通にツイートとかで返事するかもやけど、なんか動画とかにして答えれたらいいなとも思ってます、あ、内カメ割れてるしむりや。
じゃあ今日はもう疲れたんで経ます。おやすみ。
矛盾だらけが1番筋通ってる
久しぶり
もう10日以上空いてしまった。
その間、暇な時とか暇じゃない時にいろいろ考えることがあって、「あー、これは書いときたいなー」とか思ってたんですけど義務感で動くのは嫌やったから。まぁぼちぼち。
とはいえ今回はテーマを決めてから書くわけじゃないからもうしばらくうろうろする。
ブログってアクセス数が見れるんですけど、意外と結構見てくれてるんやなあってグラフを見るたび思います。
ただまぁ、他人に語りかけてるっていう実感は正直なくて、案外「数字」って力無いんやなーって思いました。
そんな時に、親友が「ブログ読んでる」って個人的に言ってくれて、そこに「頑張れ」って言葉があったわけでもないし、ただ、そいつが読んでるっていう事実を知っただけやのに、数で言ったらアクセス数の方が数千倍の読者を証明してるのに、めっちゃ感動しました。
よし、んじゃ決めました、他人と自分について話します。
考えすぎると陥りがちな勘違い
この、他人と自分との関係こそが自分で感じる自分の価値を決めてるんちゃうかなって最近思います。やから自意識過剰で承認欲求の高い俺にとってはめっちゃ大事なことです。
知る限りあんまいないですけど、俺みたいな、ある意味で超ナルシストな尖った奴って、「自分は自分」とか「芯」とか、そういう確固たる存在であるべきやってことに固執してることがあります。
自分を縛る勘違いというか。
だからいい加減でゆらゆらしてる他人とか世間にも厳しいし、イラついてしまう。
そんな自分の考えに対して最近「なんかちゃうな」ってよー思うんです。
そもそも俺は確固たる意志なんて持ってないし持つつもりもない、常に人には多面性があってそのうちのいくつかがアウトプットとして今のその人をかたどってるだけ。
だからいくら正論が吐けるとかよりも、その時々の自分が納得した言葉を吐けることの方が大事やと思います。
納得できるような言葉が出てこないことすらも。
ほんまの意見は何なんって誰かに責められて考え込むようなことがあっても胸を張って「わからん」って言えばいいと思うし、そいつに合わせた答えを用意してもいいと思う。
全部ほんまの自分でっしゃろ。
俺自身、自分はいろんな表情を持ってると思います。
家族用、地元の友達用、大学の友達用、先輩用、後輩用、親友用、先生用、ドイツの人用、可愛い女の子用、、、、、、あげてたらきりがない。
ひょっとしたら人間一人に対して一人の自分。
それらがどこかで矛盾を起こすような顔でも全部本物で偽りはないです。
よろしく。
っていう意見を全部否定する自分が明日には生まれていてもそれは不自然ではなくて唐突な自然なんやと思いました。(無限ループ)
矛盾を背負って生きていく。
でしゃばるな自分、他人は賢い
俺が思いつくようなことは みんな思いついてる。
俺が抱えるような苦悩は みんな抱えてる。
っていうのが俺の他人に対する基本的なスタンスです。
6割は本気で思ってて、4割はそう思うようにしています。
誰かを見下す気持ちや、表面上のキャラクターや言葉選びで相手を判断することは、結果的に自分の存在意義を地に落とします。
下で述べますが、他人=自分に価値を与えるもの。
あと、どんな人でも小一時間話してみると大概「あー賢いなー」って思うし、
俺が言うような思想、哲学も、潜在意識的な部分で共鳴してるんやろなって思います。
いわゆるアホとか浅い奴ってのは表面的なアウトプットの能力が絶望的なだけで、本質的な部分で人がわかりあえないことってあんまり実はないんちゃうかと思います。
(断じて俺は話し合いで何でも解決みたいなお花畑ではありません。あー説明むず。政治的意見は語りたくないから何も言わんけどそう言うことじゃない、わかって。)
エヴァが形にしてくれた
少しそれて、
最近エヴァのアニメと旧劇場版を全部見終わって、めっちゃ感動したというか触発されているというか、余韻に浸ってます。(詳しくは別の記事にします。)
あのアニメってめっちゃ雑にいうと、「自分の価値とは」ってことにまとめられると思うんです。俺個人の感想ですけど。
でそのエヴァの中で(アニメシリーズのラスト2話ぐらいやったと思います。)
主人公シンジが、他人からの自分の見え方(認められたいなどの思い)、自分の価値について悩み、自分の中の、自分や他人のイメージとやりとりをかわし、おかしくなるところがあるんです。
まるで何処かの誰かの詩みたいでビックリしました。
もうほんまにこんなんで、
「僕はエヴァに乗ることでしか誰にも認められない。
他に存在する価値がない。『価値が欲しい』」
って、まさにそんな感じなんですよ。
めっちゃわかるー。
俺にはエヴァすらない。
でもみんなそうじゃない?
みんなそうなんです。多分。
結局これって他人に自分を委ねているわけで、
自分以外何もない世界では自分の存在すら不確かなんですよね。
求めているものは、「自分の価値」なんですけど、それは他人が認めることによって初めて成立するっていう。
俺はあくまで自分のために、行動を起こしている、っていう納得のためにブログを書いているけど、親友の「ブログ読んでる」っていう言葉がなかったらその価値も不確かで不安なものになってしまう。
だから他人、ありがとう。
俺はこんなにも自分が自分であるということに価値を欲している。
それは俺からみんなへの愛の強さの証でもあると思ってるし、逆も然り。
自分の力だけで、自分には価値があると思い込んで納得して悩まずに生きられるような強い人間はおらんと思います。
てか、自分で自分に納得することは果たして「価値」と呼べるものなのか。
伝わってる自信はあんまないけどまいいです。
もし暇やったらエヴァシリーズ見てみてください。
「何言ってるかあんまわからんかったし難しかったけどなんかすごかったー(棒)」
っていうその感覚をみんなにも保存してもらいたいです。
疲れた。終わろ。
今回のブログ、ほんまわかりにくいんで雑にまとめます。
- 正論や芯の通った意見なんてない。俺は矛盾だらけの人間で、それが人らしさやと思う。
- 価値がないと生きるのは辛い。それは他人と自分に線を引くものでもあるけど、他人がいることによってしかありえない。みんなありがとう。
- エヴァはおもろい。
ハーフが語るハーフ会のきしょさ
自分の生き方や考え方、あるいは立場や自分そのものについて、否定や批判をされることは誰しもがあることでしょう。
ただ、人間って、気づかんうちに時を経てそっち側に回りがちやと思います。
辛さを乗り越えたら楽なポイントに来て、次はそこを守るのに必死になるから、かつて自分を苦しめていた根源になってしまう。
ほんで俺は個人的に、そういう風景に気づいてしまうとめちゃくちゃ腹が立ちます。
腹がたつので、適当に具体例を挙げて叩きます。
一番声を大にして言いたいのは、
「ハーフ会」って、なんやねんそれ。きっしょ。
もはやこれを言いたかっただけかもしれん。
自分がいわゆるハーフやからこそ、全人類を代表して言います。きしょい。
とはいえ、特に日本においてハーフや外国籍を持つ人への風当たりというか、疎外感は感じるとこもあります、さみしい気持ちはわからんでもない。
前の記事でもほんの少しですが言及しています。
しかし!きしょい!っていうのが今回のスタンスやから。
高校卒業ぐらいの時期からかな、ハーフや日本人以外の人ばかり集めて「うちらグローバルっしょ」的な風ふかしてる連中を見かけるようになった時は吐き気がしました。
初めて虫唾が走った日。ですわ。
引用元↓
しかもタチ悪いんが日本にいながらにして、純粋な日本人がそのコミュニティにおらんゆえに日本人には批判しづらいってところ。
だからこそ当事者の俺がいうけど、あんなんクソ。
疎外感を感じて育ってきたんか知らんけど、世間を疎外しようとすなよ。
世間が目指すグローバルが、単に本来のglobalという英単語の「世界的な」とか「包括的な」みたいな意味であるんなら、目指すべきものを変えるべきやと思います。
「多様性」。そもそも個人は全て違う。個人の集まりがあることがすでにグローバル。
そこにいるのがたまたま日本人だらけでも、ドイツ人だらけでも、黒人だらけでも、女だらけでも、障害者だらけでも、グローバル。
異なった人種や性別を等しくキャストせんと叩かれるような映画、何それ。
だっさ。差別なんてほっとけ。それがほんまの意味での無差別やろ。
ちょっと持論の展開が過ぎました。
(またこういう「やりすぎ」で周りからの俺の見え方を狭めてしまう。。
我ながらセルフプロデュース力がないよなぁ。)
うん、でもそう思う。
差別で思い出したんですけど、今や「ハーフ」って言葉も差別用語らしいです。
「俺らは半分じゃねえよ。ダブルだよ。」ってことみたいやけど、俺ら倍にならん?って感じするから個人的には「ハーフandハーフ」がええかなあ。ピザの。
まあ正直どうでもいいから「いわゆるハーフ」としてますけど。
それから、最後に自分自身にも釘を刺しておきます。
こうして何かを批判するということは、今の自分がいつかの自分にとっての敵になることかもしれない。
「自分で決めること」はほんまに大事やけど、感情と理性のバランスを忘れて、後悔するような選択を取ってしまうのは愚かでしかない。
にしても言い過ぎた感はあるし、添削はしてないし、なんか微妙なんでこの記事に関しては公開はするけどツイートはしません。
見ているあなたはすごいです。ありがとうございます。
なお、ネットに載せている以上記事のシェアは大歓迎なんでそこは気にしないでください。
ま、ないと思うけど。
おやすみい。
幸福論
今回俺は超頑張った
先に言います。
訳の分からん話をします。
自分でも自分についていけるかわからん。
やってみる。
導入
ある友人がいまして、彼とはめっちゃいろんな話をします。
その時々によって哲学的なテーマみたいなのをしっかり持って考えながら生きてるような人で、俺に意見を求めてくれるし関心してくれるし、存在そのものを愛してくれる、人です。
これだけピュアに俺の意見に耳を傾けて反応してくれるのは、ダンと彼がダントツです。
普通はプライドが邪魔して素直になれへんもんですよね、俺もです。
あーまあいいや、そいつとの関係もいずれ書きます。多分。
そんな彼と、結構長い期間、会うたびに「幸せとは」みたいな話をしてたんです。
今回はそこで自分が考えてきたことと、その延長線上に思ったことをまとめてみます。
すでにまとまりないブログやけど堪忍な。
幸福を場合分け
まず、幸福を感じる場合を分けてみる
(幸福とは何かを考えるにあたっての前提条件)
1.唐突に、ふと訪れるもの
例えば、風呂きもちぇえ、、みたいな、いわゆる棚ぼた
2.現状からのアガッてる感、キテる感
例えば、目標を設定し、そこに近づいている達成感や緊張感様々なものをトータルで加味し、感じる高揚感。目標設定なくてもいえるかな。
(過去の状態から上がってる時の上り方。グラフで言うと傾き)
分けたけど結局一緒クサイ
実は1個目も2個目も、期間や程度の違いしかなくて本質的には同じものかなと思います。
ふと訪れた幸福はすぐ忘れるし。
唐突なものか持続的なものかの違いかな。
とりあえずキーワードは、傾き、とかキテる感ですね。
俺らは「夢を持って、達成する」とかを例にすることが多かったので、無理矢理分けた中で言うと、特に2つ目を中心において考えていました。
本題:幸福とは何か
結論から言うと彼の答えは「幸福は本人が自分で決めるもの」で、俺は「本質的には存在しないもの」やったと思います。
これ、問いに対して答えるポイントがずれてるんで、違うこと言ってるんですけど似たような意味です。
説明します。
例えば、
この世界には金持ちと貧乏人のような理不尽な格差があります。
しかし金持ちにとっては金を持つことは幸せではありません、なぜなら金を持ってるから。
貧乏人は金を持ってないから金を持つことを幸せと思えます。
立場、心理状態、思考、年齢、性別、、その他様々な要素を人は持っており一つとして同じものはありません。
各々がその全ての要素を踏まえて「幸福とは何か」と言うことを想います。
とても簡単に言うと、幸せの形は人の数だけあるってことです。
あっっっさ笑
まぁでも、それが友人が言った「幸福は本人が自分で決めるもの」って言う答えでもあり、「本質的には存在しないもの」って言う俺の答えでもあります。(ここで言う「本質的」は、「真理」や「事実」のような、揺るぎない確定要素みたいな意味です)
幸福は無知の上で成り立っている
でもここでちょっと意見が分かれることがありまして、、
よく聞く話なんですけど、例えばある独身のおばあちゃんが詐欺にあって、高額でなんの変哲も無い布団を買いました。
本人はそれを本当に価値があると信じており、そこから実際に寝つきも良くなりました。
さあこのおばあちゃんは幸せですか。
的な話です。
あと有名なんで言うと、幼い兄弟がカードゲームのカードを交換する話とか。(兄が弟に雑魚カード10枚あげてレアカード1枚もらう、弟はカードが増えたことに大歓喜)
どう思います?
ちなみに友人はそれでも幸せは自分がどう感じるかだから例の中の彼らは幸せだと言っていました。
先に言うと俺の答えは「不幸だ」なんですけど、それはひとまず置いておいて、ここで伝えたかったのは、幸福は、知らないということの上で成り立っているということです。
無知は罪
無知は罪という言葉があります。
ソクラテスが意図していたものと俺の解釈は若干違うかもしれませんが、俺自身も、無知(無邪気)というのはホンマに罪やなって思わされることがめっちゃあります。
例えば、進路選択。
注:この例は不快におもわれる方がいるかもしれません、閲覧注意。
日本の教育では、進路選択っていうのは結構早い段階から決断を迫られます。
いざ高校受験。
なんてゆうても決める本人らは所詮ガキです。
知らんことだらけやのに、いっちょまえに反抗はする。
親の反対を押し切って専門学校に行きました
→入ってから普通校に行った友達の話を聞き自分の中で世界が広がったけどもう遅い。とか。
普通科入りたかったけど学力が足りんかった、どうしてもその学校行きたいからレベル下げてでも学科変えて入学
→結果的にその先の選択肢を狭めていた。
とか。
当の本人らからしたら自分の中で落とし所つけてそれはそれで幸せな今を生きていると思いますが、最初から知っていてなお本当に同じ選択をしたのか。
そんな道を選んでしまった人たちを馬鹿にしたいわけじゃありません。
俺自身も進路に限らず、無知故に可能性を狭めてきてしまったことは何ンンンン度もありますし、そんな自分の甘さを噛み締めることもあります。
無知は罪です。
結果論やんってのも一つの意見です。
が、そうかな。
知ることでこれまでの幸福がひっくり返るような幸福なら、知らないことは罪でしょう。
、ていうのも一つの意見でっせ。
すると生まれる、「幸福のパラドックス」
え、無知故に幸福になり得るのに、無知故に不幸でもある??てことは、
無知∴幸福
無知∴不幸
幸福=不幸?!??!
幸福のパラドックスやぁ👐
これバイト中に思いついたワードです。
神様仏様お客様、大変申し訳ございませんでした。どうぞまたおこしくださいませ。
いよいよわけわからないですね。
これは式としてあってんのかもよくわからんけどその辺は理系ボーイズの力添えに期待して。
まとめると
幸せは知らないことがあるからこそ成り立っている。しかし無知であるということは結果的に自分に不幸をもたらす要因にもなり得る、罪である。
まとめると暴論感あるのは甘いからなんでしょうね考え方が。
突き詰めねば。
矛盾の中で、じゃあどうするか
じゃあどないしまんねんって話なりますよね。
そらそーです。
答えとしては、「知らないことを追求し続ける」です。
知らないことがあるから幸せでいれるってことは言いました。
てことは、当分幸せになれる可能性は潰えません。
俺らがなんで生きてるか、とか、宇宙ってなんなん、とか、そんなんしばらくはわかるはずもなさそうやん。やし大丈夫。
でも、だからといって知らないことを知らないままにするのは人類という生命に託された何かを放棄してるような気もします。
(だんだんオカルト感増してきますねこういう話すると。)
知的好奇心を持てるのは俺ら人間だけ!
不幸を掘り下げることになるかもしれんけど、知らん幸せを掘り当てる可能性にもなるんやから、知らんことをどんどん求めて生きましょう。
そうやって落とし所つけるしか、うまく生きる方法が今んとこ見つからん。
さて、分からんとこだらけ腑におちんとこだらけでしょうけど、ここまでたどり着いていただけたことに感謝します。
ありがとうございました。
どうぞまたおこしくださいませ。
今日はいかにもヨーロッパなとこに行ってきたよ。
野田洋次郎をフォローした上ミュートしてる話
俺は野田洋次郎の曲が好きです。
(以下、アメリカンな感じを出すためにNYと表記)
RADはもちろん好きやけどillionもめっちゃ聞くし、プロデュースした曲も聞く。
どういうとこが好きかは長くなるんでまたの機会に。
でも。
NY本人が好きかって聞かれるとむしろ苦手かもしれないです。
なんかSNS上でのはしゃぎ方とか言葉遣いとかその他諸々が俺の苦手なそれ。
晒してる部分が、じゃなくて、晒し方が。
ちょっと逸れますが、いわゆる信者はもっと苦手です。
NYがインスタで東北の一本松?を投稿し「合掌」的な言葉を添えれば、
そのコメント欄は便乗の嵐(みんながみんなじゃないよ)
○○。(←汚い言葉)
自分で決めろって散々いってきましたが、祈り方すら自分で決められない奴ははっきりいってクズです。
ちゃんと逸れたな。
で、そういうSNS上で自分を晒す行為ってすごく簡単やけど考えるべき行為やと思うんです。
得体の知れない奴がかっこいい音楽を作ってる。→カッコいい
自分と意見の違うツイ廃が音楽を作ってる→カッコよかろうが聞く気にもならない
ありえないことじゃないと思います。
何もしないってことは、何かした時の評価をより真っ当に受ける条件になり得ます。
でもこういう風にも思う。
「なんで、何かを口にした奴が、行動に移した奴が白い目で見られて、何もしてない奴が得すんねん。」
というわけで、俺もまだ答えは持ってない。
思ったことは発信したいけど、それ故にヘタな発言一つでみんなに俺のイメージを植え付けてしまって取り返しのつかないことをしてる気もする。
影響力、発言力、信用、それらを得ているようで失っているような気もする。
好きやと思ってフォローしたバンドのボーカルが自撮り魔やったら俺だってガッカリする。
太宰治がメンヘラツイートしまくってたら後世に渡って文豪とされてたんかな。
そんなわけで、NYに関してはフォローした上でミュートしてます。
俺にとってそういう人なんです。
そんなこと言うてる俺自身は、答えが持てん間は晒す方を取ります。
何も言わずに悩むよりぐちぐち言いながら悩んでみよかなって感じ。
ネコ!
俺が嫌いな人は世界で1人[下書きシリーズ]
こんちは。クヮイです。
今母の実家に来てて、まぁものすごい田舎なんですけど、こっから日本まで旅立って夫を見つけて、一生を共にする決心をして今日本で英語教室を営んでいると思うと、行動力やらなんやら、本当に母は凄いなと思います。
引用:わいのインスタストーリー(フォローして)
まぁ今回は母を褒める回じゃなくて、俺を褒める回です。
ツイッターの話。
日頃から思ってはいるけど尖りすぎてることとか、なんか恥ずいことって、呟かずに下書きにとっておいてるんですけど、忘れた頃に眺めては自分で共感してるんです。
アホですねやってること。
まぁとはいえ自分が思っていることに違いはないですし、これから[下書きシリーズ]としてちょいちょい小出しにしていこうと思います。
で記念すべき第一回目はこちらをピックアップ。
「好きなもの」についてです。
語弊があってはいけないのでちゃんとフォローしておくと、俺が公式にちゃんと嫌いなのは全人類の中で坂上忍だけです。
それだけは言わせて。
他人に対して、バカやなとか浅いなとか思ってしまうことは正直あります。
が、気持ちはわかります。
んで、その上でほんまの深層心理においてのその人はめっちゃ賢いんやって思うようにしてます。これもまたブログのネタにしたいな。
てなわけで、
流行に流されてしまう人の気持ちも、通ぶってしまう人の気持ちも、なんとなくわかるので、嫌いってのはちょっと言い過ぎです。
気持ち悪いけど。
過去に偏見:漫画村叩く奴は国際交流サークルにいそう。 - 眼球越しの私の世カイこちらの記事で、
正義か悪かは自分で決めろって言ったと思うんですけど、基本的には同じことを言いたくて、
好きなものにおいても、好きか嫌いかは自分で決めろよ!ってのが基本的な俺のスタンスです。
しかしややこしいのがここから。
わかりやすいのが音楽なので音楽で例えますが、
好きか嫌いかを自分で決められない世間↓
「菅田将暉好きやから菅田将暉が歌ってた曲好きぃ。菅田将暉が歌ってた曲好きやから米津玄師好きぃ。」
好きを自分のものにしたがる人↓
米津さんがボカロPとして活動しだした当初「ハチって知ってる?めっちゃええで。聞いてみ。」
米津さんが米津玄師名義でオリコンとか乗り出した最近
「○○(マイナーインディーズバンド)って知ってる?めっちゃええで。聞いてみ。」
一方はわかりやすく腹立ったと思いますがもう一方はわかりにくかったかもしれません。
すみません、あんま米津さん好きじゃないから例えとして出すにはふさわしくなかったかも。
後者は「知ってる?聞いてみ。」って言ってマウント取ることが目的になってるんです。
それってめっちゃきしょいことやと思います。
知らん間にそういう人の脳内では
みんなが知ってる=価値が腐ってきた
ってなってます。
結局両者に共通しているのは「好き」ってことからかけ離れているということです。
評価されているものを好きになることも、アンテナを張って自ら好きなものを見つけ出すことも、否定したいわけじゃありません。
オリコンや知名度以上に自分の感性で好きと言える人が増えたらいいなってそれだけのことです。
その上で、皆さんの好きなものの話を誰かに聞かせてあげてください。
てか俺に聞かせてください。
本気で何かを好きと言える人の好きが向いてるものにめっちゃ興味あります。
あ、んで、
「自分の感性」とやらも小さい頃から無意識に耳にしていたり目にしていたものに依るんじゃね?とかそんな俺の意見ぶっ壊すようなこと言わんといてや。頼むで。
ほなねー。