考えることをやめて、考えることをはじめよう
言語ってどうすれば上達するのか。
なぜ子供のうちから外国語を習うのは良いこととされているのか。
色々考えてみました。
原体験なるものが人にはあるらしいです。
具体的に辞書から引いたものを引用すると、
記憶の底にいつまでも残り、その人が何らかの形でこだわり続けることになる幼少期の体験
あるいは
その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。
ですって。
まあ海外経験というのはこの原体験に含まれるだろうし、思想形成に大きな影響を与えるのかもしれませんね。
とはいえそれは何んともいえない自分というものを実感する「感じ」でしかなくて、自分でもその「感じ」を把握するためには言語を介してその「感じ」そのものを育てる必要があると思います。それが思想、と。
なので結局思想って、言語を介して形成されるものやと思うんですよね。最終的には。
言語化する材料「感じ」がなければ何も生まれないのも確かですけど。
では言語がなければ複雑な思考は生まれないのか、というと、すでに言語を持ってしまっている我々にはその答えはわからないですね。
でも、難しい言葉を知ってそれを説明して、その説明のためにも言葉を知って、、ある意味思考はそれを表現できうる言語によって支配されているし、言語もまた思考を介してしか進化し得ないんだと思います。
海外では、言葉遣いを通じて、その人の思考を覗き、上流か下流かなど人としての価値を値踏みするなんてことが当たり前に起こっています。
同じような言葉遣いをする人って性格も似てくるじゃないですか。
あとー、ほら、国によって(言語によって)虹の色の数が変わるとか有名な話ですよね。
、、などという具体例を納得できてしまうのが言葉と思考が共依存しているっていうことなんじゃないですかね。
雑なまとめ方やけど、ひとまずそういうことにさせてください。
まとめちゃうと
考えることで人は言語を習得するんです。
「小さい頃から海外に行っとくべきだよ」とかいうお決まりのアレは、
物事もそれを考えることも、よく知らないけど、よく知らないからこそ試行しまくるあの頃が最も言語を欲する時期やからやと思います。
何でも説明してほしいし納得したいし、自分の中で考えたいじゃないですか。
その道具として英語が転がってたらそれを拾って考え出すし、日本語が転がってたら日本語で考え出すんです。
クソ当たり前なこと言ってるけど大丈夫かなこれ。
あ、でもそれを当たり前と思わんから日本語を介して英語を習得しようとする、みたいな愚かな教育が当たり前になるんか。すみません中高の英語めっちゃ嫌いなんです。
紙辞書こそ至高、参考書に手垢をつけてどうこう、、あーうざ。
自慢じゃないですけど英語の成績真ん中以下でしたからね。goddamn.
で、めでたく俺ももう大人ですけど、何で世間一般に大人は言語習得がうまくないと言われているのか。
脳がどうこうとかあるんでしょうけど、俺の持論では、ある程度考えることが達してしまっているし、何より一つの道具が便利になりすぎていることが原因やと思います。
考えることをやめればいいんちゃうかなって思います。
で、英語なら英語で、ドイツ語ならドイツ語で、考えることを始める。
賢ければ賢いほど、考えることが好きであればあるほど難しいことやから一筋縄ではいかないんでしょうね。
なんか矛盾してますよね、勤勉であるほどいいっていうのが常識じゃないですか。
でも無を作り出して自分の血管に染み渡らせることができる人がネイティブとか天才とかそういう類の呼ばれ方をするんやと思います。
未熟、何もない、それらの価値は全てを凌ぐ可能性を持ってるんやなあって、思いますね。
理論上、天才は作れる。
こんなこと考えんのも一回やめんとなあ。
神様、仏様、猫様、俺様
絵を描いておられる、
池永朱里さん(@ikenagamisa)
作品はこちらから↓
のツイッターでフォロワー1000人記念プレゼント企画がありまして、それに当選しました。
こういう類の当たった人がいいそうなテンプレですけど、
「こういうのってほんまに当たるんですね笑」
初めて彼女の絵を見たのは多分、(確かではないです)揺らぎ(@_yuragi_yura)というバンドのレコ発の時でした。
演奏をしているステージの前方、壁際に制作スペースが設けられていて演奏とともにリアルタイムで絵が完成していくというものでした。
他にも甘酒が振る舞われたり、ライブハウスにはちょくちょく行きますが、イベントとして一番印象に残っています。
ちょっとそれますけど、パンクやらロックやらアンダーグラウンドやら言って、一番革新的であるはずの人らが「激しい」とかそういうことに囚われてて、目新しいものに排他的で全然ロックじゃないみたいなんあるあるですよね。
そういう点ではいい意味で違和感だらけで、ロックでした。
あれからどれだけの年月が経ったのか、わからないですけど、あの時にも見ていたはずの絵に最近なぜか惹かれるようになりました。
誤解を恐れた上で言いますが、
多分俺が他人を認める(というか才能を認める)基準はほんまにガチガチに硬くて、なかなかすごさを承認できないというか、とにかくひねくれてるんです。
その人にしか持ち得ないものに自分も負けたくないし、持っていたい、そういう拒絶が起こりがちな気がします。
以前書いた他人に対する価値観と真逆のように見えると思いますが、他人は賢いっていうところはぶれずにずっと思っています。
その記事も貼っときます。
でも結局、自分は特別やとも思っています。
そんな回想の中で、やっぱり行動できる人間のすごさというか強さに惹かれ、嫉妬し、素直になれる時期がやっときたように思います。
思ってることがいくら崇高でも声に出して、行動に移さなければ何も起こらない。
元々わかってたことやったけど、ブログを始めなかったら、ずっと「俺はやればできる」って思い込んで自己肯定と自責を繰り返していたと思います。
そういう自分にやっとすんなり溶け込んできたものの一つが彼女の絵でした。
池永朱里さんをフォローしたのも最近のことです。
彼女の幅広い精力的な活動が俺にそう思わせたんでしょうけど、だとするなら余計に、行動することって大事やなって思います。
彼女はあれだけいろんなところで動いているにもかかわらず、出会うきっかけをいろんなところで仕掛けているにもかかわらず、ここに至るまでなんとも思わずに過ごしてきました。
ってことは、ブログなんて誰にでもできることをやって理解されたいなんて喚いてても知れてるんですよね、行動の大事さが身にしみますね。
こんな薄っぺらい文章になってしまって不甲斐ない。
とにかく、
なんで俺がこの絵を受け取ることになったのか、なぜ俺はこのタイミングでこの絵に惹かれたのか、意味があるように思えてならないです。
あまりにも大げさで、恥ずかしい文章であることは百も承知です、し、これが他人の身に起きたことならやっぱり目もくれないでしょう。
でもそう思うことで何か起こるんちゃうかなって思っています。
こんなことを言っておいて、
奇跡とか運命とか、そういうものってやっぱり、多分、信じてないです。
人はみんな無意識に生活を物語にしていて、いたるところに自ら伏線を張り巡らせています。
良いものも悪いものも。
大概その伏線は回収できずにことが終わっていくので、自分が伏線を張っている自覚もなく日々を過ごし続けます。
ただ何万回に一回、もしくはさらに少ない割合でうまく伏線を回収することがあり、そんなとき人は「そんな気がしてたねんなあ」とか、言いたがるんです。
それを奇跡とか運命とみんな呼びたがってるんやなあって他人事に思えた時はそう思ってました。
でもそうやって物語を積み上げることで(人生をドラマチックなものと捉えることで)人は成功を勝ち取ったり、幸せを感じたり、新たなきっかけをつかんだりするんやと思います。思考は現実化するみたいな。
とにかく、豊かで居たいなら「運命」や「奇跡」は「必要な勘違い」やと思います。
運命や奇跡は信じないと言っておきながら、また転じて、あえて言います。
この絵との出会いは俺にとっての運命であり奇跡だと思います。
ここまで分析した上でそんな生き方をするなんてめっちゃ冷めた見方ですけど、運命や奇跡を盲信するより、その意味を信じて生きていける気がします。
神様、仏様、猫様、俺様ありがとう。
世界は狭いけど、いっぱいある。
一般的に世界とは一続きに繋がっている共通の空間のことです。
全ての社会の集合、全人類の社会のこと。
最近、もはや海外も身近なものになり(現にこうして日本のみんなと普通にやりとりできてるし)、「世界って狭いなー」みたいな考え方が広がってるように思います。
確かにそれはそうで、ドイツの語学学校に行けば日本人はいるし、その人たちとしばらく話してたら必ず誰かしら同士で「マジで?◯◯出身だったの?」みたいな会話が始まってます。
やから、実際海外にいても感じることです。
世界って狭いなあって。
でもそういう風潮に対して、だからって日本の常識が通用するかって言ったら、んなわけはないんです。当たり前やけど。
当たり前の感覚が通じないっていうことは違う世界にいるような感覚になります。
だから、挑戦とか本気とかそういう言葉を日本では簡単に使えたけどなんか恥ずかしくなってきます。
マセていく周りの同級生に食らいつくように必死に背伸びしていた小学校高学年の頃みたいな感覚になります。
社会の数だけ「常識」や「当たり前」はあって、
そこには必ずそれらに縛られた「挑戦」や「努力」という概念が存在します。
これらを包括して「世界」は分かれているように思います
国だけが世界を決めるものじゃないです、業界、年齢、性別、いろんなとこで世界の境界は分かれています。
全く違う世界に身を投げ入れた時、頑張るってどういうことか、
その頑張りがそもそもどれだけ環境に囚われたものか、自分の中がぐらっぐらに揺れます。
目指していたものが、夢が、所変わればすごくちっぽけなものとして扱われていて、なんとなく不安になることもあると思います。
そして、これはなんとなくですけど、ものすごい勢いでこれから日本には「違う生き物たちの価値観」が押し寄せてくるような気がします。
大事なのは結局どんな自分でありたいかってことで、他人への憧れや良いとされるものにしがみつくと、いとも簡単に振り落とされるような気がします。
そういう意味では、世界って広いんちゃうかな。
いや、多い。世界は世界だらけです。
21年
21になりました多分。
日本時間かドイツ時間かどっちが正解?って今日本にいる父から来たんやけど、わからん。
で、
ハタチの俺は何をしてたか。
あんま無いですねー印象が。
記憶力はいい方だと思うんですけど。
19から20にかけては、体調崩して寝てました、外の天気は悪くて、なんかこのまま大人になるのもなって思って23:58から腹筋してました。
体調も悪いし日またぐ前にくたばったけど。
そういえば年末も同じことを思いました、「2017年は俺にとって何もなかったな」って。
自分でアクションを起こすこともしなくて、
ひどくそれを後悔したというか、
何も感じていない自分にショックが重くのしかかってきて、
数ヶ月ぶらぶらと不安定な精神状態でしたw
[下書きシリーズ]って書いてますけど、多くの下書きを溜め込んだ時期やと思いますw
普通ならこういう節目で気合いを入れ直して、「新しい俺は、、、」的なことを思うんでしょうけどそういう考え方向いてないし、ネガティブな自分が嫌いなわけでも無いんで、こういう人間性を抱えられる自分をそれはそれで受け入れて、生きていこうと思います。
やりたいことをやりたい時にやりたいようにする。
やりたいことをやらなきゃいけないことにはしない。
そんな感じで行こうかなと思います。
新しい自分とか過去の自分とか、時間軸で自分を切り分ける考え方好きじゃ無いんです。
あの時の自分が今の自分を作ってるのを知ってるので。
それもまた記憶力がいいから覚えてるだけなんでしょうけど。
「あの日の自分が許せない」とか、思ったこと一度もないです。
思ったふりをしたことはあるけど。
あの日の自分の感情を今の自分でも十分理解できるので。
だって自分やし。
上手く仲良くなれんかった友達のこととか、好きやった女の子のこととか、弟や妹への罪悪感とか(これはめっちゃ強い)、嬉しかったことも悲しかったことも、今でも嬉しいし悲しいし切ない。
成人式の日に、中学生の時の自分から手紙をもらいました。
「今のあなたになるために中学生の自分は、いろいろ頑張ってます。どうあろうとあなたを目指します。」的なことが書いてあったんですけど、
いや、それ書いたん覚えてるしw
まるで未来の自分を他人に見立てて手紙書いてる自分が恥ずいだけやんw
って、その時の感じを思い出して恥ずかしくなっただけでした。
手紙はその日の同窓会の会場で酔っ払って無くしました。
見た目だけでなく、人との接し方や見せかけの「内面っぽい部分」も含めて、絶えず俺の外見(そとみ)は変わっていきますが、ほんまにあん時の俺は死んでないです。
幼小中高大、それ以外のところで関わっていた全ての人に向けて、
また会いたいし話したいです。21になれました。あざす。
極論も極論
疑問
僕を僕たらしめるものってなんなんでしょう。
容姿か?なら整形してしまうと自分じゃなくなるのか?
考え方か?なら過去の自分は自分じゃないのか?
運動能力や芸術的なセンスか?なら練習して身につけた自分はどうなるのか?
最近ふと思うことなんですけど、
他人のブログとかsnsとか、あるいは昔の哲学者の本とか、色々、、とにかく「他人の意見」を目にするときに、自分の言いたかったこととかうまく言葉にできんかったこととかをかなり多く見かけるんです。
思いつかんくて悔しいみたいな感情とともに、俺の思いついたことなんてなんもないんやなってよく思います。
何処かの誰かが自分も知らんようなところで既に形にしているものを、俺は自分で思いついたような気になって自分の言葉にしているだけで、オリジナルなんてものは一個もないんやな、と。
みんなビッグバンのパクリなんやあー。
『「ate」で終わる単語やから2個前がアクセント』っていうのがめっちゃツボ
じゃあ完全オリジナルって何か
オーラとかそう言うオカルト的なもの抜きにした存在そのもの。
もっと言えばその人にしかない遺伝情報。顔や姿、形。しかないんちゃうかなあ。
整形とか外的な要因で見た目いじってたら表面に出んけど。(整形しようが遺伝情報は変わらないので表面に出なくなるだけということです、ややこしい。)
まあやし、完全に自然に、手が二、三本になってて、脳みそが隣人になってるんやったらそれは「僕」やと思います。
僕を僕たらしめるのはこの僕と言う存在をかたどる器の情報のみ。
その他の「能力」や「考え」は二次的なもの。
中身と言われる部分は、まっっっっっっっっっっったく同じ環境を用意して思考や発想を育てれば同じものができると思うんです。
同じ思考回路で物事を判断し、同じ努力をして、同じ成功と失敗を与えて、、、、、。
まあそんな環境を与えるの、無理なんですけど。
長年連れ添った夫婦の好みが似るとか双子は意思疎通がはかれるとかそういうのってそれに近いことなんじゃないですかね。
えげつない極左思想の持ち主も極右になり得るし、
俺も全く同じ環境下で生きたら坂上忍みたいになったってことですね、恐ろしい。
絵とか音楽とかすご技とかそう言う類は、わかりやすく環境や努力によって身につけた2次的な能力
わかりにくいけど、常識とか思考とか心情とかその類も、全然違う人でも同じ環境で0から全く同じ教育を施せば同じ人間が出来上がるんじゃないか
一歩間違えたらあいつにも、あいつにも、あいつみたいにもなり得たと思うと恐ろしいよなマジで。
ってことです。これ、ブログの下書きなんですけど清書するのめんどかったんでそのまま貼りました。
容姿だけで好きになる人本質的じゃね?
だとすれば、顔がタイプだ、背が高くてかっこいい。
とりあえずかわいい
その感覚はめっちゃくちゃ本質的な気がします。
その人がその人やという本質的な「器の情報を形にしたもの」を好きと言ってるわけですから。
でも、その人をかっこいい、かわいい、綺麗、と思う感覚も、
自分の器を取り巻く色々によって生まれたものなんです。
一切いじってない見た目に出る部分はほぼほぼその人の全てであることは間違いないけど、それを良いとするか悪いとするか、観測できるのはまたそれぞれの価値観にまみれた人間達のみです。
結局
だから、結局、性格が大事派も容姿が大事派もどっちが正解とかないし醜い争いなんですよね。
お前が好きな性格もお前が好きな容姿も、お前を取り巻くものが決めた価値観やから。
死ぬまで、自分を取り巻くたった一つの環境に育てられて自分というものからどんどん遠ざかって洗脳されて生きていく。
それでいいというか、それしかないですね。
よくできた他人との違いに思い詰めた時はこの記事を思い出して、「よー洗脳された器やなあ」って笑ってやりましょう。
ほんまに極論でしたね。
チャンチャン♪
価値あるネガティブ思考[下書きシリーズ]
ポジティブ=正義みたいな風潮
ポジティブが正義みたいな風潮、根強いですよねー。
どれだけ悲観的でも最後には頑張って前を向かなあかんみたいな。
上を向いて歩こう涙がこぼれないように
的な。
ええやんネガティブでも
なんでがんばらなあかんねん
悩んでる人間にしかわからんものもあるやん
って個人的には思うし、
クソみたいな時間を過ごせば過ごすほど、
空っぽな勿体無い時期がある人ほど、魅力的な人間性を兼ね備えてるように思います。
自分を正当化したいだけかもしれないですけど。
人生順風満帆のポジティブ野郎にはあんま魅力を感じないです。
定期的に長文にわたってモチベーションを上げる文章をつらつら書き綴り、白黒に加工した背筋の画像をアップするアスリートより、
時々「だるい」の一言だけを発する謎に満ちた人の方が話してみたくないですか?
ネガティブの価値
俺自身、考えてみりゃ本気で何かしたことってそんなにないかもしれん。
結構ネガティブやし、時間の使い方の無駄さは半端ない。
てか基本自己嫌悪がすごいです。
何かをしたい自分と、考えるだけで勝手に結果を悟って動き出せず、それを責める自分。
何もしていないってことは他人から評価されるための鎧がほとんどないむき出しの状態やから、自分の気持ちを誤魔化しようもない。
感情が暇すぎて悩みに全振りしてしまい、自分の小ささに気がついてしまう。
そういう時に、あ、生きてる意味ってないんかもしれんとか思いがちなんです。
(生きてる意味はあるって今は思ってるけど)
でもそういう空虚な時間で得た思考や思想や発想は我ながらすごいと思います。
「もっと考えると」みたいな感じで悩みをつきつめることができます。
以前、(確かこの時も色々考えに考えてふと書き留めたんやと思いますけど)こんな下書きを残してました。
(うわ充電やば)
人に言うことでもないし、「下手に知名度があるモデルやバンドマン」に嫌な顔されそうやから自分の中に留めてたんですけど、あくまで俺がその立場やったらそう言う勘違いをしてしまいそうってことですからね。
承認欲がすごいからこそ、それが満たされてしまうと弱くなってしまう気がするんです。
ここでも矛盾が出てきてしまったけど、俺は矛盾を背負って生きてるから。いいの。
「悩める」ってめっちゃ価値のあることやと思うし、
その悩みを抱けない人からしてみればとても贅沢なことやと思うんです。
さらにはその苦しみを共有できていると思い込んでしまうと、
もうそれでええやん、解決。ってなってしまうじゃないですか。
貴重な自分の葛藤が、生まれるはずだった思考や発想が、偽物の共感によって潰えてしまう。
そういうことに俺は気づきました。
ネガティブ故に。
納得のいかない自然の摂理
ポジティブがいいとかネガティブが悪いとかそんな価値観はクソやと思います。
でもネガティブによってたどり着いた思考や発想を次にどうするかって言うと生きるために使うわけです。
結局何もしないと生物は生き続けてしまうんです。本能によって。
これが地味に俺の中の謎で、生か死か、この二択が存在しているはずやのに、
「何もしない=生」ってことは、神に?宇宙に?まあ何かしらに、ポジティブであることを強いられているような気がするんです。不本意やなあ。
でも、まあしゃあないですよね。
実感として死ぬのは怖いし、嫌やし、悲しいし、そこに抗う努力は虚しいだけです。
自殺なんて、「死に対してポジティブ」でなきゃいけないわけです。変な言葉やけど。
まとめ?
じゃあ生きましょう。と言うか、生きることになるでしょう。
そうすると、
ネガティブが精神衛生上良くないってことははっきりしてるわけやし、
それが体に悪影響を及ぼすこともわかってる。
結果、生きてる限り最終的に人間はポジティブに向かわなあかんし、
そうじゃないと生きてることそのものが辛くなる。
どれだけ悲観的でも最後には頑張って前を向かなあかんわけです。
みて。俺の嫌いな文言を後押ししてしまってる。
でもこの長い回り道を経てこの文言を見た人には、同じアンダーラインが引かれた文章でも意味合いが全然違うことに気づいていただけると思います。
自然の摂理として人間は最終的にポジティブに向かうだけのことであって、
俺としてはそれが正義とも悪とも思いません。
下を向いて歩いてもいいし、いくら振り返ってもいいし。
俺は、ネガティブを肯定する存在としてい続けたいと思います。
その人が次のポーズとしてポジティブをとることになるように。
どこまでもネガティブでも、悪いなんてことはない。
と、あえて言える存在でありたいです。
これは他人への救いでもあり、自己肯定でもあります。
ネガティブでいよう。
読んでくれる人が減った
1日でも空くと久しぶりっていう感覚。
久しぶりです。
題にある通り、このブログ、最初に比べればだいぶ読んでくれる人数も落ち着いてしまいました。
自己顕示欲にまみれた青年としてはこの辺でくじけてしまっても何ら不思議ではないんですが、頑張れる理由があります。
ほんまに単純なことなんですけど、自分が尊敬する人たちからの褒め言葉があることです。
読んでくれる人が減ることと反比例して、自分に影響を与えてくれたり衝撃を与えてくれたり、面白い価値観を持ってる人たちからの賛同や共感の声をいただけるようになりました。わざわざラインくれたり、dmで教えてくれたり、ありがたいー。
っていうか、多くの人の目に触れるためだけならもっと小手先のテクニックも使うし、検索で引っかかりそうな内容、記事自体の有用性を高める努力をしてます。
でも、ありきたりな、生活のちょい役立ち豆知識みたいなんよりよっぽど価値のあるものを吐き出してる自信はあります。
画面上で言葉をこじくりまわす以上のことは何もしてないんですけど、
その代わり、俺の脳みその中身はできるだけ伝わるように、出し惜しみしないように、もったいねええええって思いながらも書き残してます。
芸術家や音楽家なら、もっと比喩とか伏線とか構成で、隠して、もったいぶって、、わかった時にすげーってなる一連のカラクリを組めるところを、全部取っ払ってわかりやすくしようとしてるから、まじ勿体無い。
俺にとっての俺の中で正しいこと、面白いこと、を整理がついたものから垂れ流してるわけなんで、俺の価値観では、このブログを見逃してる人ってめっちゃ損してるんですけど、ま、いいや。
正直頭ん中ごちゃごちゃしすぎてかけてないこともめちゃめちゃいっぱいあるけど。
んんーだから、こういう作品でも何でもない一人の人間の意見が列挙されてる場っていうのは、できるだけ利用してほしいです。
素直にそうだと思ったところをその人の価値観の糧にして、素直に違うと思ったところも糧にして、そうして生きている人が実際何人かいると思うと感動するし頑張ろうってなります。
そして、そういう人たちがそれを伝えてくれること。
こんなやりがいのあることは、今の俺には他にないです。
でも、ごめんなさい、今回の記事をここまで読んでくれた人ならうすうす気が付いてると思いますが、横田魁、まとまった濃い内容を発信することに疲れつつあります。
そして同時に、「アクセス数」っていううわかりやすい指針にやられて、どれだけ身を削ろうとも他人があまり他人に興味関心を持ってないことを身に染みて感じています。
ですから今後は日記的なしょうもない記事もちょくちょく織り交ぜていくとは思います。
もしかしたらそこからもっと面白いものになるかもしれんし、ならんかもしれんし。。
続けていくことだけは諦めずに、今後も誰かに届くことを願って、頑張ります。
最近、インスタを新しい形で頑張ろうとしつつ、早くも挫折しかけてます。
もしよければ見てくださーい。